●今週は「ガッチャマンクラウズ インサイト」の放送がないので、替わりに、今更ながら『一般意志2.0』(東浩紀)を読んだ。驚くほどサクサク読める。概ね、同意できる感じだった。
ビッグデータ解析によって可視化される人々の無意識のようなものを、ルソーを引きつつ「一般意志2.0」と名付けるのは批評家としてのセンスなのだろうし、ハーバーマスアーレント、シュミット、へーゲル、フロイトなどをしっかり参照しつつも、大胆なほどにわかりやすく論を進めるという芸当は誰にでもできるというものじゃないだろうし、終盤で唐突にローティーアイロニーをルソーと重ね合わせつつ、ノージックを裏返してくっつけてみたりする物語的な展開の工夫はさすがという感じではあるけど、とはいえ、多くの人が方向としてはだいたいこんな感じで未来をイメージしているのではないか、というところから大きな飛躍がある感じではないと思われ、やっぱりそう考えるしかないのかなあ、という感想になる。
(ただ、ここに汎用人工知能がどう絡むのか、という問題もある。)
この本で「一般意志2.0」のイメージは、最初は(1)数理的に導かれる得る数学的存在として登場し、次に(2)モノの秩序に属する、とされ、さらに(3)集合的な無意識、(4)不定形な情念となり、最後には、(5)今までは高音域で聞き取れなかった動物の声、となっていた。一方例えば、実際にビッグデータを扱う仕事をしている矢野和男によって書かれた『データの見えざる手』では、「ある纏まり」としての人間の行動は、ビッグデータの解析によりほぼ完全に物理法則のような規則に従うもの(物理現象)として捉えるこができる、という描像になっていた。これは(1)(2)のイメージとは共存可能だが、(3)以降のイメージとはあまりなじまないようにみえる。
『一般意志2.0』における政治のイメージは、【1】一般意志により選良(エリート)の選択を制限する、【2】動物的な公的領域(一般意思・アーキテクチャ)と人間的な私的領域(熟議・多様なコミュニティ)を両立させる(アーレントのピオスとゾーエーを転倒させている)、であった。これは、一般意志のイメージの(1)から(5)への連続的移行によって説得力をもつように思われる。だがこれに、《1》物理法則により選良の選択を制限する、《2》物理現象的な公的領域と人間的な私的領域を両立させる、と、代入してみても、ニュアンスはかわるが成り立たないわけではないように思われる(この本で例として挙げられているアレグザンダーの重ね焼きは、どちらかというと「物理現象」寄りである気がする)。ただ、ここで「物理現象」と言ってしまうと、「動物的な公的領域」を可能にする根拠であった、想像力、共感、憐れみ、といった要素の居場所がみつからなくなってしまう。
(ああ、そうか、この本は「想像界と動物的通路」の議論とつながっているとも言えるのか。)
一般意志が、「動物の声」であるのか「物理現象(あるいは数学的存在)」であるのかという点は何とも言えないが……(前者と後者の違いは「共感」を入れる余地があるかどうかだろう)。「物理現象」と言い切ってしまうと、環境管理型権力とか生-政治のようなニュアンスが強く出てしまうとも言えるが、ポストヒューマン的な言説を参照すれば、必ずしもそうとばかりは言えないようにも思われる。一般意志(≒ビッグデータ)に「物理現象」ではなく「動物(≒共感)」という両義的イメージを与えようとするところに、筆者のこだわりがあるのだろうと思う。