●『パラサイト』の地下シェルターの描写を観ていて、なんとなく『クリーピー』(黒沢清)を連想したので、U-NEXTで観た。黒沢清の演出や描写がキレキレなのは勿論だけど(特に大学の場面はどれもひっくり返るくらいすごい)、それでも、ぼくにはこの映画(このお話)が面白いとはあまり思えないかなあ、と思ってしまった。
たとえば『CURE』の萩原聖人は、とても抽象度の高い「越えてはいけない一線を越えてしまっている人」だが、ここで香川照之が演じた人物は、こういうヤバい奴、普通にいそう、という風に感じられる。だからより生々しく怖いとも言えるのだけど、だがそうだとすると、リアリティの置き所が違ってくるのではないだろうかと思った(もっと、リアルに寄せた話になるのではないか)。だがこの作品は、いわゆる「現実らしさ」という意味でのリアリティとは別のリアリティに依っているように思われる。
この映画でヤバい奴は香川照之だけでなく、西島秀俊もそうとう病んでいる人物だ。その意味では『CURE』の役所広司にも通じる。ただ西島秀俊は役所広司と違って(そして『ニンゲン合格』の時とは大きく変わっていて)、自分の思いのままに突っ走る、かなりマッチョな匂いのする男性になっている(この映画自体が、西島秀俊のそのようなあり方に対する批判的な視線をもっている---たとえば西島は竹内結子に裏切られて注射をうたれる---のだけど)。『CURE』の役所広司にあったような躊躇、淀み、揺らぎのような幅があまりなく、登場人物としての面白味は少ないように感じられた。
とはいえ、黒沢清の演出や描写の密度がめちゃくちゃすごいことは間違いなくて、長いキャリアを通じて真面目に仕事をつづけている作家の凄みというのは間違いなく感じられる。
(以下、ネタバレ。この映画では、香川照之が他人に銃を預けてしまう場面が二度ある。一度目は、藤野涼子に母を殺すように命令して銃を手渡す場面。ここで観客は緊張を感じる。藤野涼子は香川照之に銃を向けることもできるから。だが藤野は勇気を持てず、香川に刃向かうことはない。このとき香川は、藤野が自分に銃を向ける可能性があることを考慮していないようにみえる。つまり香川は、計画的で確信をもった---隙をみせない---完全犯罪者ではないし、藤野の母を自ら殺すことを避けようとしているので、快楽殺人者でもない。香川は薬を使って他人を支配しようとするが、特に邪魔にならなければ殺そうとはしない。自分勝手な独自論理・倫理に従って藤野の母を罰するだけだ。香川は無関係な家族を支配することでそこにパラサイトし、自分を疑似家族の一員としようとする。香川の目的は他者の支配と疑似家族の形成だろう。ある意味で隙だらけである香川の行為が発覚・破綻しなかったのは、彼の目的や独自論理があまりに常識から外れすぎていて、それが他者を攪乱し、その内実が読まれなかったからだろう。また、決して完璧なものとは言えない香川による他者の支配は、支配される側にも「支配されたいという欲望」という隙があることによって成り立つものだろう。
しかし、香川が二度目の隙をみせた時に、西島秀俊にその隙を突かれて破綻する。この、香川のあっけない敗北に対して、一度目にみせた「隙」が伏線となっている。)
(もう一つ、キーになるポイントとして「薬」をどう考えるのか、ということがある。香川照之のような変人に、いつの間にか他者が支配的に操作されるようになってしまう。その不気味さや、それはなぜなのかという疑問が、この物語を引っ張る要素のうちの大きな一つであろう。その謎の解が「薬」なのだが、この解は紋切り型であまり工夫がないように感じられてしまう。この「そのまんま」な解に納得できるかどうかで、この物語に説得力を感じるか否かが変わってくると思う。薬による支配は、現実的にはリアルかもしれないのだが、繰り返しになるが、この作品は、事実らしさによるリアリティとは別のリアリティに軸を置くものとして組み立てられているように思われる。)
(勿論、「薬」は唯一の解ではない。たとえば、香川は、支配関係を成立させやすそうな、いかにもヤバそうな空間的配置を探して、そこをターゲットとする。また、香川のあまりに常識から外れた言動が、人の通常の判断力をバグらせるということもあるだろう。表現的には、香川の言動こそが強く押し出されている。薬は、支配関係をつくるために必要な要素の一つでしかない、とも言える。薬の入った注射器は、小道具の一つであって銃とそんなに変わらない、と。しかし、要素のうちの一つだとしても、それはとても大きい一つで、それを出してしまうと他が霞んでしまうくらいの---「表現的な」ではなく---因果的な強さをもってしまうのではないか。)
●書いていて今気づいたのだが、ぼくのひっかかりは要するに、表現的にはとんでもなく凄いのに、因果的に納得できない、ということかもしれない。