●新宿のジュンク堂にタダでもらえる本をもらいに行ったのだが、それだけで済むはずはなく、けっきょく、その時もっていたお金から帰りの電車賃を抜いた分すべてで本を買ってしまった。すっからかんになって、「ROCKIN'ON JAPAN」の忌野清志郎特集をぱらぱら立ち読みしていた。前にこの日記で、RCサクセションの良さがよく理解出来ないということを書いたのだが、巻末に載っていたディスコグラフィを見て、80年の「ラプソディ」から84年の「フィール・ソー・バッド」まで、ライブアルバムを含めてすべてのアルバムをリアルタイムで買っていたことを、アルバムタイトルとそのジャケットデザインを見て思い出した。つまり、中学の三年間を通して、ぼくはずっとRCサクセションを聞いていたらしいのだった。当時、普通に流行っていたのでなんとなくは聞いていただろうとは思っていたのだが、そこまでしているとは思わなかった。何故そのことをすっかり忘れていたのだろうか。何故、その記憶が抑圧されているのだろうか。たしか、「ブリーズ」というアルバムの1曲目の「ダーリンミシン」という曲が好きで、よく、買ったレコードのテープを交換していた友人のHと一緒に、「ダダダ、ダーリン、ダーリン」とか歌っていた場面まで思い出したのだった。(その後の、84年以降のRCや清志郎をまったく知らないので、YouTubeで見てても、知らない曲のなかに、なんとなく知っている曲が時々混じっている、という印象しかなかった。)
ところで、このHという奴はとんでもなく悪い奴で、ほとんど人間的な感情がないんじゃないかという風に冷酷で、しかも中学生だから「怖いもの」を知らないからなおさら手が付けられない感じで悪いのだった。基本的に、抑制ということを知らない奴だから、嫌な屈折はないのだが。今から考えると、なんであんなに悪い奴と平気で普通に付き合っていることが出来たのか、我ながら不可解で空恐ろしいのだった。自分のことながら、本当に子供というのは何考えてるのか訳が分からない。そのHと、中学を卒業した後に一度だけばったりと会ったことがある。二十歳くらいの時、ぼくは浪人していて、予備校からの帰りのバスのなかで会ったのだった。Hはすっかり印象がかわって、暗くておとなしい感じの青年になっていた。当然のように高校は中退していた。Hのことだから、浪人しているなんて言ったら絶対ボロクソに罵倒されるだろうと思ったのに、「お前大学行くのか、いいな」と、本当に羨ましそうに、暗い声でボソッと言われたので、ひどく動揺してしまった。そんなことまで思い出した。
●『トウキョウソナタ』(黒沢清)をDVDで。いままでずっと観ることから逃げていたのだが、ツタヤで新作から準新作になったので、覚悟をきめて観た。確かに凄い傑作だと思う。ただ、ぼくにとって、映画作家黒沢清は、やや遠い存在になってしまったのかもしれないという感じももった。行く先の見えない人々を描いたという点では、『復讐/消えない傷痕』や『蜘蛛の瞳』の方がリアルだし、家族の話という点からは、『ニンゲン合格』の方がリアルだ。しかしそれは、あくまで「ぼくにとって」ということであって、この作品が凄いということに関して、ケチをつけるつもりはまったくない。例えば、相米慎二の最高傑作は、完成度という点からみれば『お引っ越し』ということになるのだろうが、ぼくにとっては『ションベンライダー』の方がはるかに貴重な作品なのだが、しかしそれはあくまで「ぼくの人生」にとっての重要度であって、だからといって『お引っ越し』の完成度にケチをつけるつもりはまったくない、というのと同じような感じだ(『トウキョウソナタ』のオープニングは、ちょっと相米の『台風クラブ』を想起させる)。黒沢清という映画作家は、相米慎二と並んで、「ぼくの人生」そのものと混じり合っていて切り離すことの出来ない、客観的に距離をとれないような存在なので、こういう言い方をするしかないのだ。(ただひとつ、ケチをつけるとすれば、この映画の役所広司は全然駄目なのではないか、という点だ。役所広司だけが駄目だと思う。)
あと、この映画の小泉今日子は滅茶苦茶怖い。ぼくにとってのこの映画のリアリティの中心は、「小泉今日子が怖い」というところにある。例えば、無理心中してしまった津田寛治の娘も怖いのだが、この怖さは、今まで黒沢清がつくってきたホラーに出て来る幽霊の怖さに近い。しかし、小泉今日子の怖さは、生きている女性の怖さで、黒沢清の映画からこういう怖さを感じるのは、ぼくが今思い出せる限りでは、『蜘蛛の瞳』の哀川翔の奥さんの役の人から、ほんのちらっと感じられたくらいだと思う。『CURE』の役所広司の奥さんのもつ狂気の恐ろしさとは真逆の、健康であることの怖さというのか。それは決して異界の女性ではなく、現世の俗な女性で、だからこそ一層「遠く」、理解を拒むかのように恐ろしく、ぼくには感じられる。
失業した香川照之がこっそりと家に入ってくる場面で、夫に声をかける小泉今日子の声の、その低さと冷たさがとても怖い。家族のなかで唯一ぶらぶらしている長男とだけ、密かに心が通じている(長男にだけ取得したばかりの運転免許証を見せる、とか)感じがとても怖い。香川照之が帰って来るとテレビの前のソファーで小泉今日子が眠っているのだが、この寝顔と、その佇まいがとても怖い(この身体の存在感は、幽霊的なものと真逆だ。その後台詞で「引っ張って」と言うのはちょっと分かり易すぎる気もするけど)。アメリカの軍隊に入るなどという突飛をことを言い出す長男に、驚きつつも、それをけっこう冷静に受け止めている時の小泉今日子がとても怖い。家族の誰も食べないドーナツをつくる小泉今日子が怖い。給食費未納の件で教師から呼び出された後、次男の部屋に強引に侵入して行くそのきっぱりとした行動力が怖い。いろいろあって大変なのは理解出来るが、どう考えても最悪の振舞いをする香川照之(黒沢清の「父」への敵意は半端ではないと思った)と平気で夫婦をつづけられる小泉今日子が怖い。等々、ほとんどの場面で、ぼくには小泉今日子が怖いのだ。そしてその怖さには、無茶苦茶リアルな感触がある、つまり、マジで怖い(それは「母」の怖さであるというより「妻」の怖さであるように感じられた)。ただ、強盗である役所広司に拉致された後の展開では、その「怖さ」が説明的になってしまっているように感じられもしたのだが。ラストで、次男がピアノで弾くドビッシーは、役所広司に拉致されて訪れた夜の海で小泉今日子が見たであろう「何か」を、彼女の内側から描写しているようにも思われた(黒沢清がこのような音楽の使い方をしたのはおそらく初めてだと思う。このドビッシーの曲は、家族のそれぞれが、ほとんど夢=悪夢のような経験を通過して、一旦(仮に)死んだ後に訪れた「ある境地」を示しているわけだが、でも、その通過の過程で「何かを見た」ことが具体的に示されているのは小泉今日子だけのように思われる。しかし、こういう時はやっぱドビッシーなんだな、と思った)。その意味でも、この映画は小泉今日子の映画であるように、ぼくには思える。というか、ぼくには、小泉今日子がひたすら「怖い」の映画としてしか観ることが出来ない。しかもその怖さは幽霊的なものではなく、現世的なものなのだ。
勿論、ここで「怖い」とは「惹かれる」とほぼ同義(というか、その裏がえし)なわけだけど、考えてみれば、ぼくはアイドル時代の小泉今日子が大嫌いだった。なんでみんなそんなに小泉今日子のことが好きなのか、まったく理解出来なかった。「なんてったってアイドル」など、今でも「許せない」という感情を強くもっている(でも、あれは秋元康が悪いのか)。とにかく、八十年代において、小泉今日子によって代表される「何か」が、ぼくには許せなかったし、それは今でも基本的にかわりはないのだが。その小泉今日子が年齢を重ね、全然別の小泉今日子になって、画面に映っている。そのことも、ぼくにはとても怖い。いや、そうではなく、きっと小泉今日子はずっと、アイドル時代からこういう感じだったのだろう。だとしたら、さらにもっと怖い。
●前に、こまばアゴラ劇場で藤原ちからさんと話した時、このすぐ先に『トウキョウソナタ』で父親と子供が出会う三叉路があるんですよ、という話を聞いた記憶があり、その場所は映画に出てきて、あ、これ駒場だ、と、すぐに分かった。後ろに京王線がはしっていたし。それにしても、黒沢清(のスタッフ?)はこういう場所を見つけるのが本当に上手いなあと思う。