●昨日、『復讐 運命の訪問者』を観て圧倒されたので、今日は『CURE』をビデオで観た。この映画も97年の作品。かつて、何度も何度も繰り返し観た映画だけど、改めて観るのはずいぶんとひさしぶり。関係ないけど、この映画に名前が出てくるメスマー(メスメル)とぼくは誕生日が同じ。
90年代後半の黒沢清は滅茶苦茶に多作で、94年に2本、95年に2本、96年にはなんと5本、97年に3本、98年に2本、99年に3本と、この6年間に17本も映画をつくっている。多くが、当時Vシネマと呼ばれていたもので、一応映画館で短い間公開されるけど、基本的にレンタルビデオ店に置かれるソフトとして製作されたもの。最初は、お仕着せの企画モノを黒沢清なりに料理した作品という感じが、だんだん黒沢色が強くなってくる。とはいえそれは、最初は抑え目にしておいて、実績を積むにしたがってやりたいことを強く出していったというよりも、実践的に多くの作品をつくるなかで「自分のやりたいこと」が徐々に形作られてきたという感じなのだと思う。そしてそれが、97年から98年くらいに一つのピークを迎える。
おそらくこれらの作品は、一つ一つ独立したものというより、連続性のある、実践的なエクササイズのバリエーションという感じなのだと思う。実際、多くの作品が、キャストが重複するシリーズ物であり、二本分の台本をもって二本分同時に撮影されたりしている。この時期の黒沢清のすごさは、(1)非常に自由で創造性の高い空間とフレームの使い方、と、(2)非常に自由で創造性の高いキャスティング(意外性があり、かつ的確)だと思う(このキャスティングの的確さが、2000年以降ちょっと弱くなっているんじゃないかという気が、ぼくはする)。しかし、基本的に低予算で早撮りされる映画なので、ロケーションの場所やキャスティングの選択の幅はかなり狭かったと思われるし、時間や予算の都合上、そんなに凝った撮り方も出来なかったはず。だからこの創造性は、強い制約のなかで必要に迫られることで生まれた(発明された)ものなのだと思われる。これらの作品は当時のぼくにとって、困難な条件こそが自由と高い創造性に繋がるのだということの具体的な実例として、すごく刺激になったし、心の支えでもあったと思う。そしてまた、作品はその制作自体がエクササイズであるような時に、最も高い創造性を得るのだ、ということも。
この時期の作品が連続的なエクササイズのバリエーションであることは確かだとして、しかしそれでも、哀川翔の系列の作品と役所広司の系列の作品とでは違っている。哀川系は、理由を問わない映画であり、役所系は、理由が問われる映画であるといえる。理由を問わないということは迷わないということで、理由を問うということは迷うということでもある。例えば、『CURE』の萩原聖人のような人物は、迷いのある役所系の世界であるから成立するのであって、迷わない哀川系では通用しない。迷わないというのは決定論的だということで、運命の進行に滞りが無いということ(全篇が「滞る時間」で出来ているような『復讐 消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』でも、「滞り」そのものが運命のようであり、哀川はそれを予め受け入れているようにみえる)。迷うというのは決定論に抗うということで、運命に対する保留や拒絶、疑問として、迷いが生じる。迷いは、作中に濁りや不透明感、疲労感、自己の自己への折りたたみ(自己言及性)を生じさせ、つまり内面の匂いを漂わせる。最終的には運命が勝利するのだが、その過程が違っている。
(例えば、高度に内面的、内省的な物語をもつ『復讐 消えない傷跡』にまったく内面的な感触がなく、その内省性が完全に「時間の質」へと転化されているのは驚くべきことだと思う。それはおそらく、「何故」がまったく問われないからではないだろうか。)
それは、違いはそのくらいしかないということでもある。『復讐 運命の訪問者』も『CURE』も、あらかじめ怪物である六平政直、萩原聖人が一方にいて、徐々に怪物へと変質してゆく哀川翔役所広司が他方にいるという点ではまったく同じだと言える。ぼくは『ドッペルゲンガー』という作品に疑問をもっているのだが、それは、本来哀川系であるべき作品なのに、役所広司が主演してしまっていることで焦点がぼやけてしまったからではないかと思う(あるいは逆に、役所系としては中途半端だったのかも)。また、役所広司哀川翔がともに出演している『ニンゲン合格』には、他の作品にはない特別の感触があるように思われる。
そして、その役所系の作品が『CURE』によって生まれたのだ。基本的に、これ以前の黒沢清の作品はすべて哀川系(哀川翔が出てなくても)だった。つまり、理由を問うことがなく、これはこうだからこうなのだ、という事実の強さにおいて映画が存在し、保留なく世界が進行する。理由や内面は映画を弱くすると考えられていたのではないか。それはつまり、役所広司という俳優がいれば、理由や内面を扱っても大丈夫だと思えた、ということでもあるだろう(『CURE』はまさに、理由を問うことの意味と無意味をめぐる映画だ)。役所広司であれば、映画の強さと理由や内面を両立させ得る、と。それは、黒沢清が『CURE』ではじめて、コアな映画ファン以外にも広く支持を得ることが出来たことと関係があると思う。
とはいえ、理由や内面は確かに映画に幅と深さを与えるが、同時に、シンプルな強さを失わせることも否定できない。今回も『CURE』は非常に面白く観られたし、刺激も受けたのだが、『復讐 運命の訪問者』のような、言葉が出ないほど圧倒させられる(一分の隙もなくみっしりとすごい)という感じではなかった。画面の強さや空間の自在さはやや後退しているともいえる。むしろ後退することで言葉を誘発する隙をつくるような感じなのかもしれない。