●『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清)をDVDで観た。大変に面白かったのだけど、その一方で、これが黒沢清の映画である必然性がどこにあるのだろうという感じも持ってしまった。でもそれは、ぼくが今でもまだ九十年代の黒沢清にとらわれてしまっているからだとも言える。あるいは、黒沢清の現在をちゃんと捉えられていないことろからくるのかもしれない、と。
一見して、『復讐 運命の訪問者』(97年)を連想したのだけど(「運命の訪問者」の発展的リメイクかと思ったけど、原作モノだった)、だからこそ、それとの「違い」によって、九十年代と現在の黒沢清の違いが感じられる。
この映画では、香川照之が一見して怪しい人物なのだが、しかし、どの程度怪しいのかよく分からない。変人だけど悪い人ではないのか、それとも本当にヤバい人なのか。それに、西島秀俊だって、狂気を抱えていそうな雰囲気があり、東出昌大の登場の仕方や佇まいも怪しげだし、竹内結子だって何か秘密を隠していそうだ。つまり、この映画の前半は「誰を信用していいのか分からない」という宙づりで進む。だけど中盤以降、結局は見たまんま、一番ヤバそうなやつがヤバかったとなって、あとはひたすら香川照之のヤバい描写で押していく。
一方、「運命の訪問者」で香川照之の位置にいるのは六平直政なのだけど、こちらは一目見て完全にヤバいと分かる。とにかくこの人は有無を言わさずにヤバいから、絶対に近寄ってはいけないと一発で分かるくらいヤバい。ヤバい人ははじめから明白にヤバくて、ずっと一貫してヤバい。一方にはじめから明白にヤバい六平直政がいて、もう一方に、こちら側からヤバい側へと一線を越えて踏み出していく哀川翔がいる。
九十年代の黒沢清は、このような明白さとともにあった。こいつ絶対ヤバい、この風景ヤバい、このカットすげーヤバい、の連続で出来ていたように思う。でもそれは、Vシネマというジャンルがあり、九十分以内という上映時間があって成り立っていたのかもしれない。
以降、黒沢清は、「ヤバいものははじめから明白にヤバい」ということと、物語を成立させるための「宙づり、謎、サスペンス」(そして、明確なオチ=説明をつける)ということとを、どう上手く両立させていくのかという試行錯誤のなかにいたのではないかと思う。そしてそれは結局、上手くは馴染まない。ぼくはどうも、その「うまく馴染まなさ」にゼロ年代以降の黒沢清の作家性をみていたのではないかという疑いがある。もっと言えば、上手く馴染まないからこそ、「宙づり、謎、サスペンス」として演出される映画のなかに、ごろっと「ヤバいものははじめから明白にヤバい」が突出して、そしてそれによって「宙づり、謎、サスペンス」を成立させる時空が歪んでしまう(そして上手くオチがつかなくなる)という、その歪みを黒沢清だと思っていたフシがある。
(短編ホラーならば、その二つは上手く繋がるのだけど、長篇では常に繋がりそこなう。)
(97年、98年の作品が、「ヤバいものは明白にヤバい」で押し切った達成としてあり、2003年の『ドッペルゲンガー』くらいから、そこにある種の「不純さ」として「宙づり、謎、サスペンス」の要素が目立ってくるように思う。最近では2014年の『Seventh Code』が、例外的に「ヤバいものは明白にヤバい」で押し切った作品にみえる。)
でも、最近の『岸辺の旅』や『クリーピー』では(あるいは『贖罪』も)、その両者が上手く馴染んできているというか、「宙づり、謎、サスペンス」の演出が上手くなって、「ヤバいものは明白にヤバい」をその説明づけられたものの枠内に手懐けられるようになってきているように感じる。そうなると、普通に面白い、とてもクオリティの高い映画になる。『クリ―ピー』も、観ていてホントにすげえなと思うのだけど、でも、これは黒沢清なのかな、とも思う(いや、黒沢清印の細部は至る所に充分すぎるくらいあるのだけど)。それは何と言うか、前のめりになって「おおー、すげー」という感じではなく、椅子に深く腰掛けた観賞モードで、クオリティ高いなあと感心する、という感じになるものだ。
(とはいえ、じわじわくる「嫌なものを観た」感はあって、「うわーっ(語尾下げる)」というリアル感はある。)
繰り返すが、これはぼくが九〇年代の黒沢清にとらわれているということであり、現在の黒沢清を上手く捉えられていないということにすぎないかもしれないのだけど。
●でも、そうは言っても、この映画にも「ヤバい奴は明白にヤバい」という瞬間はある。ラストの竹内結子がそうだ。正直、ぼくは竹内結子があまり好きではない。この人が映画やドラマに出ていていいと思ったことがほとんどない。でも、このラストはヤバかった。この映画は、実は香川照之よりも竹内結子の方がずっとヤバかった、という映画ではないか。というか、すべてはラストの竹内結子のための「溜め」だったのではないか。
だからやはり、「これ」があるのだから---少なくとも「これ」には完全にやられたのだから---この映画は紛れもなく黒沢清の映画だと言えるか。