●『メン・イン・ブラック』(バリー・ソネンフェルド)、『蛇の道』、『カリスマ』(黒沢清)をDVDで観た。実は『MIB』をはじめて観た。すごくおもしろかったけど、このようなネタを、一般的な娯楽作品にしてしまうのはもったいない、もっと徹底してマニアックでカルトなつくりにしてこそ、このおもしろさが十分に発揮されるのではないか、という風に、ぼくはどうしても考えてしまうのだが。
●九十年代後半における黒沢清の作品の変化は、その作品内に時間的展開を内包するようになるという点に代表されるのではないか。それは簡単に言えば、混沌から運命への時間的展開を、映画が示すようになるということ。それを端的に示すのが、役所公司が演じる一連の人物であろう。
映画がはじまった時点では、世界は混沌に満ちている。混沌というのは、言い換えれば「自由」があり得、「意志的な努力」による世界への働きかけが有効であると見なされている世界ということでもある。何が正しいのかはよく分からないが(だから「迷い」があるが)、それでもどこかに正しさはあるはずであり、それぞれの人物はそれぞれの立場で(自分の役割が正しいものであるという確信は持てないままではあるけど)、迷いのなかにありつつも自らの役割をそれぞれ全うしようと努力している(だから異なる立場間での「抗争」がある)。迷いがあり抗争がある世界。それが映画のはじめにある「混沌とした世界」だ。
そこに、それぞれ立場の異なる「意志的な努力」を根底から無化しあざ笑うかのような事件が起きる。そして、そのような事件を「ある特定の立場」から追ってゆく、正しさと責任を背負った人物がいて、だがその人物は事件を追う課程のなかで自らの立場が次第に揺らぐようになり、最終的には立場−責任を放棄し(他の立場へと転向するのではなく、「立場」そのものを放棄する)、運命に身を任せることを肯定するに至る。つまりここで運命の肯定とは、自由と意志的な努力の放棄であり、正しさの否定であると言える(責任があり得るとしても、それは「正しさへの責任」から「運命への責任」にシフトする)。黒沢清の映画で役所公司が演じるキャラクターが示しているのは、このような意味で、混沌(自由と責任のある世界)→運命(決定論的世界)という、世界の組成の時間発展(変質)であると言える。ここでは、何か(運命)を肯定する強さは、別の何か(自由と責任、そして善悪)を放棄する切断の強さとしてあり、双方は分かちがたく結びつき、役所公司は、善悪の世界から善悪の彼岸の世界へと移動する。
『CURE』をそのプロトタイプとし、『カリスマ』、『降霊』、『アカルイミライ』、『ドッペルゲンガー』、『叫』などは、ニュアンスや重点の置き所に違いはあるものの(そしてその違いは決して軽くみられるべきではないものの)、基本としてこのような方向のバリエーションだと言えると思う。『トウキョウソナタ』の小泉今日子なども役所的人物と言える。『回路』は、同様の傾向をもちつつも、どちらかというと「混沌とした世界(自由と愛)」の側の「運命」に対する抵抗を描くという傾向が強いと言える気がするし、『LOFT』には混沌−愛と運命との抗争があるというよりも「分裂」があるように思う。
混沌から運命への移動の課程が孕む「時間」が、通俗的な意味での物語を映画のなかに取り込むことを可能にする。要するに、物語を語ることが可能になる。役所公司との共同作業によって黒沢清が世界的な評価を得ることになったのは、それによって通俗的な物語を映画が内包可能になったという点も大きいのではないか。
『カリスマ』を久々に観ておもしろかったのは、この映画はそのような時間的展開を、物語による加工を最小限にして、ほとんど裸のままで示しているような映画だと感じたことによる。『CURE』のような洗練された物語はなく、そもそも事件らしい事件すらなく、ただ、自分の正しさを確信できないままそれぞれの「立場」にすがって抗争する人たちの形作る混沌とした世界が先ずあり、そのなかに、どのような立場にも属さない役所公司がふらっと現れ(彼は「立場の世界」から追放された人物であるから、どの立場にも属していない)、混沌のなかに巻き込まれてふらふらさまよいながら、最後にはどうやら、よく分からない何かしらの確信を得たらしいというところで映画は終わる。役所が何を確信したかはよく分からないままなのだが、しかし何かを確信したことは間違いないようで、その確信は諸立場間の抗争の相対性を超えた、絶対的な確信であるようなのだ。もっともらしいこと(あいは、具体的なこと、意味のあること)は何一つ語られず、ただ混沌(迷いと自由)→運命(確信と自由の消失)という時間発展による世界の(そして主人公の)変質があるだけの映画。
哀川翔との協力関係による黒沢作品、例えば『復讐 消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』などでは、このような混沌は、時間と空間の、たゆたうような無方向のひろがりのようなものとして現れていた。これらの登場人物は、ある深い諦観のなかにあり、それゆえに混沌はそのまま肯定され、様々な立場間の抗争はありはするが、それは差し迫ったものではない。諦観によって、混沌−抗争の切迫性が後退し、それによって混沌と運命とが同時に成立可能になる。そこには時間発展はなく、混沌と運命との両立(重ね描き)する特異な時空が成立する。役所的確信が混沌を否定し運命を肯定する(あるいは混沌から運命に移行する)のに対し、哀川的諦観は混沌と運命を重ね合わせる。だから後者には通俗的な物語(因果関係の展開)は入り込めない(このような系列の作品に、『ニンゲン合格』、『大いなる幻影』があると思う)。
役所的人物は、ある立場と責任を持つことによって、世界を抗争化させ、その抗争の一員として巻き込まれるのだが、『カリスマ』ではその「立場」を一時的に剥奪されることによって、哀川的世界(宙づり)にも通じているようにみえる。
で、『蛇の道』を観ると、高橋洋による脚本においては、はじめから「混沌(自由や愛)」が存在していないというところがおもしろい。だから混沌→運命という時間的展開は成立せず、はじめから運命しかない。混沌→運命という展開でははなく、運命→運命という、運命の回転がある。だから、諦観(時空のたゆたい)もなければ確信(時間の発展、進行)もない。この、運命しかない世界を黒沢清がどのように造形するのかというところに、この映画の不思議な感触が生まれるのだと思う。例えばその一つが、あの異様に広い監禁室。むしろ監禁している側の方が狭い部屋に閉じこめられているかのように見える、監禁という時に思い浮かぶ紋切り型を裏切る、あのような空間にこそ、黒沢清による「運命に対する抵抗」がみられるように思われた。
黒沢清においては、混沌(自由や愛)は主に空間的展開として、運命は主に時間的展開として現れるように思う。
●黒沢−哀川的諦観が、混沌と運命を重ね描きする特異な時空を生成するのに対して、例えば『血を吸う宇宙』や『恐怖』などで、高橋洋的な決定論的な運命が、様々な運命が同時存在するような、並行世界的、多宇宙的な感触を生むという、この違いがぼくにはとてもおもしろい。