黒沢清のヒッチコック化

●例えばゴダールの映画において、映像(イメージ)は、それ自身として存在する。つまり、そこに何かが隠されていたり、それと現実(実在)との関係が問われていたりはしない。イメージはイメージとして、それだけで十全なものとして存在する。(平倉圭氏などによる反論はあるが)ドゥルーズに従えば、イメージの外部は、イメージとイメージ(イメージと言語、イメージと音声、音声と言語)との隙間にこそ垣間見えるのであって、イメージの深さによって示されるのでも、イメージの背後に隠されているのでもない。対して、例えばヒッチコックにおいては、イメージは何かを覆い隠すものとしてある。過剰な視覚性は、その背後に、あるいはその奥深くに、見たくないもの、なかったことにしたいものを覆い隠すためにこそ要請されている。『サイコ』で最も有名なシャワー室での刺殺シーンが、あのように過剰なカット数で撮られなければならないのは、ひとえに犯人がアンソニー・パーキンスであることを「見せない」ためである。モーテルの傍らに建つ屋敷の不気味な外観は、実はそこには誰もいないという事実を隠すためにこそある。そしてそのような隠された事実は、モーテルの裏手にある沼の奥深くに実際に沈んでいる。だが、沼は濁っていて、水面からは底が見えない。
黒沢清は、ある時期まではおそらくゴダールに近い位置でイメージを扱っていた。例えば、『蜘蛛の瞳』では、イメージの背後に何もないことに耐えることこそが、作品の意味を支えていた。とはいえ、その「何もないことに耐える」ことの重さが、イメージの外側で起こった出来事である何かしらのトラウマ(物語的にみれば娘が殺されたことだが、それは勿論、何らかの実存的な重さの隠喩である)と拮抗することが、作品の「意味」となっているのだが。つまり、実存的な重さをつくる重力としてのトラウマが、それを的確に表現する形象を得ないまま、ただ空虚なイメージばかりを生産し、その空虚に安易に意味づけしないという踏みとどまりの緊張感のみが、トラウマの重さと釣り合うことが出来る、というようなものだろう。『ニンゲン合格』や『大いなる幻影』になると増々、イメージの外側にある出来事(トラウマ)と、それによって生産されるイメージとの結びつきは希薄になり、ほとんど乖離して、イメージが増々空虚になり、しかしそれに従って(反して?)踏みとどまりの緊張は強度を増す。
しかしおそらく、職業的な映画作家である黒沢清においては、このような、ナンセンスな強度をひたすら増して行くという方向に作品を展開してゆくことは、自身の作品の製作を困難にする。そこで、イメージの外側の出来事とイメージとを再び関係づけるためめの技法として、ホラーという形式が選ばれる。例えば短編『花子さん』(「学校の怪談〜物の怪スペシャル」)では、友人をいじめて自殺に追い込んでしまったことに対する罪悪感が幽霊という形象に結びつき、作品そのものを成立させる基盤(動機)のようなものとして(物語上に)存在する。このような、消し去り難い、しかし消してしまいたい感情を核に置くことで、イメージの裏地が生じ、イメージが空虚であることから救われる。しかしそれは、トラウマ=原因という、安易な因果律に作品が縛られてしまう危険も生まれる。この作品では、幽霊に三つの異なる次元を設定することで、それを逃れている。一つは、学校にまつわる記憶全般の形象化であるような、ただざわざわざわめいている、精霊のような幽霊。もう一つは、個人的なトラウマなどとはまったく関係なく作動する、この世界そのものの上位の原理であるような「花子さん」。その二つの中間に、自殺してしまった友人の幽霊が存在する。だがこれはまだ、イメージを組織する方便としての物語上の問題に留まる。(ところで、黒沢清には、一旦装置が作動してしまったら、誰もそれを止められない、というような強迫観念がある。それは映画のなかでは、しばしば機械仕掛けのものへのこだわりとしても形象化される。花子さんもまた、そのような装置の一種であろう。これは、一旦上映がはじまれば、観客が観ていようといまいと、そこに出ている役者が生きていようと死んでいようと、そんなこととは関係なく、自動的に最後まで進んで行く映画という装置のことであると同時に、主体が必死に抑圧しようとするものを、あっけなく露呈させてしまう欲動の循環の自動的な運動のことでもあるだろう。)
ドッペルゲンガー』においては、黒沢的なナンセンスの強度が限りなく弛緩してしまっているように思われる。そこにあるのはただ、黒沢的細部の緊張を欠いた反復でしかない。そしてそれにつづく『LOFT』や『叫』では、仕切り直すように、それ以前とは多分にことなったイメージの組織の仕方がなされているように思う。それはつまり、黒沢清ヒッチコック化であるように思われる。
とりわけ『叫』における、驚くほどに充実した視覚的過剰性(黒沢清は、何と優秀なスタッフに恵まれているこかと思う)は、その視覚的充実そのものを見せるというよりも、その背後にあるものを必死になって隠しているような幻想性が感じられるのだ。(そしてそのことは、この映画のもつ物語と連携している。人々はひたすら、みたくないことを、なかったことにしようとする。)イメージは何かを覆い隠す幻想的なヴェールであり、そのために過剰な装飾性をまとっている。その事実は、『叫』において、葉月里緒菜の幽霊(なかったことにしたいもの)がどのようにあらわれるのかをみれば分る。イメージを内側(裏側)から食い破るように、壁(=スクリーン)の亀裂から出て来る。(あるいは、埋め立てた土から滲み出す海水として、現れる。)そしてその亀裂は、地震という(私の意思とはまったく無関係な)世界の震動によって生じたものだ。あるいは、『LOFT』において、カップルが、いかに過去を忘れて新たな一歩へと踏み出そうとしても、過去の記憶の様々な諸形象を、普段はその水面が隠す役割をしているとはいえ、それらがしっかりとが蓄積されている貯蔵庫である(あからさまに『サイコ』のあの沼と響き合う)「湖」が存在してしまっている限り、「過去」は、機械仕掛けのウインチの自動的運動によって、何度でもしつこく回帰してくるのだ。黒沢清における最大の恐怖とは、なかったことにしたいものが、いつの間にか無視することの出来ないような形で(自動的に)露呈してしまうことで、いくら過剰で充実したイメージによってそれを覆い尽くそうとしても、それは現れてしまうのだ。(役所広司小西真奈美との会話が、どうしてもズレてしまうように。)
黒沢清の映画において、「水」はいつも「深さ」と関係している。その底には常に、なかったことにしたいものが横たわっていて、それを隠しつつも温存させている。それは、あくまで水面(表面)として、限りなく美しい光りの反映をみせるゴダールの湖とは基本的にことなっている。思い出してみれば、『蜘蛛の瞳』で既に、哀川翔とダンカンの前には、深さをたたえた湖が広がっていた。(長靴しか釣れないにしても。)