08/05/16

●これはまったく「思いつき」の域を出ない雑な話でしかないけど、作家には「幽霊好き系」と「宇宙人好き系」がいるように思う。例えば、黒沢清清水崇が幽霊好き系なのは当然として、『リング』や『らせん』の脚本家であり、清水崇の師匠でもある高橋洋はあきらかに「宇宙人好き系」であるように思う。あるいはシャマランや、楳図かずおは、宇宙人好き系であろう。
もっともらしい言い方をするならば、幽霊好き系は、世界の全てを想像界の作用としてみようとすることによる歪みを作品化するのに対し、宇宙人系は、世界のすべてを象徴界の作用においてみようとすることによる歪みを作品化する。だから、幽霊好き系は、その場その場であらわれる齟齬、矛盾、亀裂を敏感に察知して形象化するが、謎に対して体系的な解を求める欲望は強くない。謎とはそのまま世界のなまなましい感触であり、そもそも解を求めるようなものではない。対して、宇宙人好き系は、世界を体系的に理解すること、あるいは作品を体系的に構築することを強く望む。というかむしろ、オカルト的な体系が先にあって、世界はその体系に従って強引に解釈され、その解釈の強引さによる歪み、世界そのものと解釈との摩擦の感触こそが作品化される。(だから科学もオカルトも、共に「宇宙人好き系」の人のものだ。)宇宙人好き系にとって世界は体系的な秩序のもとにあり、「謎」は最大の問題であり、それは常に体系に従って解釈され、解かれなければならない。
幽霊好き系にとっても「世界の法則」の存在は信じられているが、それは人知を超えたものであり、それを直接的に把握することははじめから求められていない。世界は常に新たな驚きとして現前する。宇宙人好き系にとっては「世界の法則」は体系として把握されていなければならず、世界のすべては既にどこかに書き込まれて決定していて(アカシックレコード)、世界に「新しいもの」は到来しない。新しくみえるものは常に「謎」であり、それは体系的に解釈されるか、あるいはより精密な体系によって解消されなければならない。世界のすべてはあらかじめどこかにあるイデア的な真理の反復であり、その反映であるという感触がある。
ぼく自身はあきらかに「幽霊好き系」に属するように思う。だから、「宇宙人好き系」の作品は、直接的な共感によって理解するのではなく、その組成を分析し、その分析を通じて他人の頭のなかを自身の身体の上でトレースするというようなやり方で理解することになる。この分析の過程は同時に学習の過程でもあり、分析的把握を通じて、ぼく自身も少しずつ「宇宙人好き系」の感情や世界への感触を、まさに感情や感触として理解するように、つまり宇宙人好き系の感情がぼくの頭のなかでも多少は作動するようになってくるだろう。
例えば、横尾忠則は強烈に「宇宙人好き系」の画家だと思う。だからぼくには、その作品を直接的に理解することは難しい。その作品に近づき、そこ感情や感覚をぼく自身の身体の上でも作動させるためには、分析的な過程という媒介が必要なのだと思う。