08/05/17

●横浜の野毛山動物公園に、中野成樹、誤意訳・演出『Zoo Zoo Scene(ずうずうしい)』(エドワード・オールビー『動物園物語』)を観に行った。まず、スタッフに先導されて動物園をひとまわりして、閉園後、動物園内の広場で上演がはじまる、というもの。野毛山動物公園は、浪人時代にスケッチに行ったり、大学時代に映画の撮影に行ったりしたことがあったが、訪れるのは二十年ぶりくらい。
ぼくの演劇へのアレルギーは、生身の人間が直接目の前で何かをすることの鬱陶しさにあり、そしてその鬱陶しさを「ないもの」として「虚構の次元」をたちあげるためには、結局、いろいろな前もっての約束事を暗黙のうちに受け入れなければ成立しないものなんじゃないか、ということで、つまり簡単に言えば、なんかしらじらしいしわざとらしい、ということなのだが、この偏見は、岡田利規や中野成樹を観ることで徐々に解消されつつある。いや、解消されるのではなく、中野成樹の舞台は、まさにその鬱陶しさのあり様が作品となっている感じがした。
動物園を一巡して広場に着いて、まず驚くのは、それなりに見晴らしがよく広さもある広場の一画に、すごく小さな舞台と、その舞台をせせこましく取り囲むようにぎっちりと詰められた客席が用意されていたことだ。こんなに広い場所なのに、なんであんなせせこましい舞台なのか、と思う。
上演がはじまる。俳優は舞台上ではなく観客からとても遠い位置にいて、観客もまだ客席に着いていない。一人の男がもう一人の男に近づいてゆき、何か話しかける。二人はなにやら話しているようなのだが、セリフは観客には全く聞こえず、動物園の動物のうめき声やカラスの鳴き声ばかりが聞こえる。この距離がとても不思議な感じだ。もしかすると大きな劇場等で演劇を観る時には、もっと距離が離れている場合もあるかもしれないのだが、ここは動物園であり、観客もツアー旅行の待ち時間みたいにして、ぼさっと突っ立っている。それでもそこで何かが演じられていることは受け入れて、それを観ている。二人は言い争う感じで、少しずつ観客から遠ざかってゆく。映画で、長回しのロングショットを撮影している時のスタッフは、こういう感じで芝居を観ているのかなあ、という距離感。
いったん見えなくなるまで遠ざかった男のうちの一人が観客に向って歩いてくる。男は、観客たちに対面して、そこに設置してあるマイクを使って、知らない人に動物園であったことを話していたら逃げられてしまったと語りかける。観客は、その男が俳優で役を演じていると知りつつ、ごく近い位置から対面で、しかも舞台と観客席という仕切りなしの同一平面上で話しかけられることで、実際にあぶない奴に話しかけられたような感覚をもつ。ここでは、普通に(虚構の次元というフィルター抜きで)他人と近い距離で対面した時に自然の作動する防衛的な機能が作動するのだと思われる。観客が俳優を見るだけでなく、俳優もまた観客を見ているのだという、当たり前の事実が緊張を強いる。極端な遠さから極端な近さへのフレームの移動。しかもここでは、演技と現実の境界も揺さぶられる。だがここで、男がマイクを使っていることで、発言する側とそれを聞く側という仕切りが(視線の非対称性が)、かろうじて保たれているように思った。
その俳優に促されて観客はようやく席につく。舞台も客席も狭く、広い場所なのに観客はぎゅうぎゅう詰め(という言い方はやや大げさだが)にされる。ここでは、俳優と観客の距離が近いだけでなく、観客同士の距離もきわめて接近したものとなる。(客席はコの字型になっていて、向こう側の観客も、すぐ近くに見える。)このことの効果と作品上のテーマは密接に関係しているだろう。男は、今度は舞台の後ろから(壇上ではなく、観客とは舞台を挟む形になって)、マイクで話しはじめる。あいかわらず距離は近いが、舞台という仕切りを間に挟むことで、観客は虚構上の人物であるはずの俳優=役との距離を安定させることが出来るようになる。そこで喋っているのはただのあぶないお兄ちゃんではなく、それを演じている人なのだ、と。
しばらく男の話がつづいた後、冒頭で遠ざかっていったもう一人の男が客席の後ろ側をぐるっとまわってやって来て、舞台上に立つ(というか座る)。ここからは、せいぜい二畳くらいしかない狭い舞台の上で、二人の俳優が演じることになる。舞台装置は細長い立方体の箱状のものだけであり、その舞台上での位置の変化や、それが縦になったり横になったりすることで、空間のバリエーションがつくられる。ぼくの顔のすぐ前に俳優のケツがある、というくらいの距離で、狭い舞台からこぼれ落ちてしまいそうなギリギリの動きで演じられる。近い位置から見上げるような角度で観ているので、演劇というより、相撲やプロレスを観ている感じだ。しばらくすると舞台上でもマイクが使用されるようになり、これもまた、狭い舞台の上で二人の俳優の距離感に変化をつけることになる。
二人が壇上にいるということの仕切られた隔たりと、しかし俳優の身体がごく近い位置にあることの密接な距離感とが、不思議な効果となる。(大きな広がりのなかの、狭いところにぎゅっと集められた観客と俳優とのあり様は、劇中にでてくる「檻」という言葉に説得力を与える。)俳優の細かい動きや表情がよく見える半面、近くからかぶりついている自分の視点の限定性もまた、強く意識される(向こうから見たら、一歩離れてみたら、全然違って見えるだろう)。男は、ズボンの尻のポケットにカッターナイフと(それを隠すための)財布を入れていて、劇中しばしばそこに手をやるのだが、それが演出上の仕種なのか、それとも、カッターがポケットから落ちてしまいそうなのを演技をしつつ気にしていて、演出以上にそこに手をやっているのかは分からない。この距離だと嫌でもそういうことが気になる。それに、ここまで距離が近いと、演劇だと分かっていても、カッターの刃が出て来ると、それだけで緊張がはしる。
ここでは、俳優と場所、俳優と役、俳優と俳優、俳優と観客、そして観客と観客、観客と場所との距離感が常に揺さぶられていて、しかもそれは、たんに技法として揺さぶられているのではなく、戯曲のそのもののテーマと絡んだ形でそれがなされている。やほり中野成樹の舞台はすごく面白いと、改めて思った。