グレッグ・イーガンの「ワンの絨毯」という短編を読んだのだけどこれがすごく面白かった。ただ、ぼくにとってこの小説は思考実験的なSFというより、あくまでリアリズムの話として面白かった。物理的にはともかく、すくなくとも心理的には、われわれは既にもうこういう世界に住んでいるんじゃないかと感じられた。こういう話を、割合すんなりと受け入れられるという時点で、既にこの世界はこういう世界なのだ、と。
●ちょっと違和感があるのは、例えば、この小説では、≪千次元周波数空間の十六次元の切片≫のヴィジョンというのを、あっさり三次元的な、それもすごく通俗的なヴィジョン(海中にうねうねした不定形の生物が沢山いる)として描写してしまっているのだけど、それはどうなのだろうかと思った。いや、十六次元の空間などはじめから描写出来るはずないのだから、そこはさらっと通俗的なイメージで流しておいてOKで、描きたいのこそこじゃない、ということなのだろうけど。そしてそれは賢明な選択なのだろうけど、それにしても、もうちょっとこう、小説として異様なイメージが出てくるように努力しないのかなあ、と思ってしまう。こういうところが、ぼくにとってのSF(小説)というジャンルへの違和感としてあるのかもしれない。
●ぼくがこの小説で面白いと思ったのは以下に引用するようなところ。抽象的で相対的なもののもつ「具体的な手触り」のようなもの。それは思弁やロジックとしてしか掴めなくて、具体的なイメージ(表象)も意味にもなりようがないのだけど、そのロジックによって(あるいは「変換」という過程によって)生じるあくまで抽象的な感触のようなものがある。手で触れることの出来ないものの手触りとか、目で見ることの出来ないものの色調のような感じのもの。
●引用の前に説明。登場人物はすべてソフトウェア化されていて身体をもたない(移相人類)。彼らは自殺しない限り永遠に生きつづけるし、自分をいくつにも分裂させられる。引用の最初に出てくるオーランドは、主人公パオロの父。しかしパオロは純粋に確率論的に生成された人格で、父からは何も受け継ついでいない。父オーランドは第一世代の位相人類で、肉体をもった人間からスキャンされた。つまり父オーランドはオリジナルを(遥か遠い過去に)もつが、息子パオロにオリジナルはなく、(生殖によってではなく)はじめから移相人類=ソフトウェアとして生まれた。≪C−Z(カーター−ツィマーマン)≫とは、そのような移相人類たちの集うポリスのうちの一つ。彼らは、それぞれの主義主張に応じて、別々のポリスに分かれて生活している。
地球にいる≪C−Z≫ポリスの位相人類たちは、自らのクローンを千体ずつつくり、それぞれを千機の宇宙船に分けて宇宙の千の場所を目指して飛び立たせる。それは、≪人間宇宙論≫という唯我論を掲げる≪アシュトン−ラバル≫というポリスの人びとを論破するために、自分たちとは異なる発展をした生命体を発見することが目的だとされる。「ワンの絨毯」では宇宙に飛び立った千組のクローンたちのうちの一組の顛末が描かれる。そこでは自分たちとまったく同じであり、かつ、それぞれ異なる千の別バージョンが同時にあることが常に意識されている。
≪オーランドは新しい恋人だといって、キャサリンという長身で肌の黒い女性を紹介した。外見に覚えがなかったが、その女性が発信している身元コードをチェックすると、ポリスは狭い世界なので、パオロはその女性に以前いちど会っていた――サミュエルという男性として。ディアスボラ宇宙船のすべてに採用された恒星間核融合主推進装置に取り組んだ物理学者のひとりだ。ここにいる人々の多くが、自分の父を女性だと考えているのだと思うと、パオロはおかしかった。≪C−Z≫では現在も大多数の市民が、二十三世紀に流行をはじめた相対的ジェンダーの慣習に従っている。オーランドは自分の息子にそれをとても根深く結線したで、パオロはその慣習を捨てたくなることさえなかった。しかし、矛盾がここまで露骨にあらわになるたびに、パオロはこの慣習がいつまで続くものやらと思う。パオロはオーランドと同性であり、それゆえ父の恋人を女性として見た。自分と父、父と恋人というふたつの親密な関係が、キャサリンはサミュエルであるという得たばかりの知識をしのいだのだ。オーランドは、肉体をもつオリジナルがそうだったように、自分自身を男性で、異性愛者であると認識していた―― 一方サミュエルの自己認識も同様だ……そして、たがいが相手を異性愛者の女性として見ていた。もしだれか第三者がそのことで混乱したら、それはそのときのこと。これは≪C−Z≫流妥協の典型だった。従来の秩序を覆し、ジェンダーを(ほかのポリスの大半がすでにやっていることだが)完全に捨てる気はだれにもない……だからといって、肉体をもたず、ソフトウェアになったことがもたらした柔軟性に異議を唱えるものもいない。≫
●ここでジェンダー(二項対立)は、ほぼ無効化しているのだけど、しかし依然として(客観的にでも、主観的にでもなく、関係論的に)「ある」。このような入り組んだ相対性の感触を、ぼくは、今、目の前にあるカップに入っているコーヒーの香りと同じくらいリアルであると感じているのだけど、それはぼくがおかしいのだろうか(ぼくは小説でこういう抽象性を書きたい)。実際、われわれはこのような入り組んだ認識の仕方を、実は意識しないままで日常的にしているのではないか。ぼくにとってこの小説が面白いのは、思考実験的な論理のアクロバットによってではなく、このような細かい記述(それ自体、アクロバット的に抽象的なのだけど)の多くがリアルに感じられるからだ。
●あるいは次のような部分。何を消去したのか分からないが、消去した(断絶がある)という事実のみを覚えている、という感触。エレナは、主人公パオロの恋人。
≪パオロは共感と支援とを示しながら精神接合を申しでたが、エレナは辞退した。
「いまは自分の心の領域をはっきりさせておきたいの。ひとりで解決したいから」
「わかるよ」パオロは、ふたりが愛を交わすことで得たエレナの不完全なモデルが、心の中から消えるままにした。そのモデルは知性もないし、すでにエレナと接続しているわけでもないが、当人がこんな気分でいるときにそれを持ちつづけているのは、背信的というものだろう。親密な関係は重い責任をともなうとパオロは思っていた。エレナの前に愛した女性は、自分についての全情報を消去するように求め、パオロはほぼそれに従った。その女性については、消去を求めたという事実だけをいまも覚えている。≫
●そして、そのような感触の究極としての輪廻。
≪ハーマンは第一世代で、生まれはオーランドよりも古い。スキャンされたのは二十一世紀のことで、≪カーター−ツィマーマン≫はまだ存在もしていなかった。だが何十世紀ものあいだに、ハーマンは人生経験の大半を消去し、十回以上も人格を書きかえていた。≫
しかし、人格を書き換えたということだけを覚えているとしたら、それは、前世の記憶があると言っているだけの人と、どこが違うのか。それは、内側からの記述と外側からの記述という視点の違いということになる。記憶は消えてもIDは連続している――だからこそハーマンだと分かる――のだろうから、内側からは別人で、外側からは同一人物ということになる。ハーマンの主観としては、IDの連続性(を他人から指摘されること)によって、外側から「人格を書き換えた」ことを知らされるのだろうか。
●そもそもこの小説の冒頭の奇妙な感触。主人公パオロが千のクローンへと分岐するのだが、そのことを主観的に知るのは外から聞こえるチャイムの回数によってだった。こちらは人格の書き換えとは逆に、クローン以前と以後とでの意識の断絶はまったくなく、ただ、チャイムが一回しか鳴らなければ「わたし」はクローンではない(地球にいる)と知り、二回以上のチャイムによって「わたし」はクローンである(宇宙にいる)と知る。しかしこの前者の「わたし」と後者の「わたし」はチャイム以前、それが鳴る直前まではまったく何の違いもない。死んでいるのと同時に生きてもいる猫のように、「わたし」は地球にもいるし、どれかの宇宙船の中にもいる。チャイムが鳴るのと同時に「わたし」の千への分岐が生じるのだけど、それ以前の千の「わたし」のすべてがどの「わたし」にもなり得る同じ(対称的な)「わたし」であり、しかしチャイムと共に、それ以降は、それぞれの経験が(千の、既に同じではなくなった別々の「わたし」へと)不可逆的に分岐してゆく。
このような奇妙な感触は思弁によってのみ表現可能で、具体的な出来事や感覚を積み重ねても表現できない。
●「ワンの絨毯」は『ディアスボラ』という長編にその一部として組み込まれているのだという。『ディアスボラ』は買ってあるけど読んでいない。長編の方も読みたいと思うと同時に、こういう話は、がっつり体系化されていない、断片のままの状態の方が面白いんじゃないかという気もする。