●「サイエンスゼロ」で細胞操作の話をやっていた。絶滅危惧種の細胞(特に生殖細胞)を冷凍保存するということがなされていて、でもその時、精子に比べて卵を保存するのは難しく、特に魚類の卵は大きくて、油や栄養を多く含んでいるから現状では保存は不可能なのだ、と。
だけど、魚のオスの始原性細胞(稚魚の段階の、まだ精子になるか卵になるか決定されていない生殖細胞)や精原細胞(精子になることは決定しているが、まだ精子になっていない生殖細胞)を、メスに移植すると、そのオスの細胞が卵になることが発見された。と。これはたとえば、「ニジマス」のオスの始原性細胞や精原細胞を「ヤマメ」のメスに移植すると、「ヤマメ」のからだのなかで「ニジマス」の卵が出来る(オスに移植すれば「ニジマス」の精子が出来る)、ということである、と。
だからたとえば、「ニジマス」が絶滅したとしても、その精原細胞が冷凍保存されていれば、それを使って(他の魚を使って)「ニジマス」という種を再現(復活)できるということになる。
●これが「クローン」と違うのは、「ニジマス・オスA」の精原細胞から「Aの精子」をつくり、「ニジマス・オスB」の精原細胞から「Bの卵」をつくって、そこから個体が生まれるのだとすると、AとBとが交配して子供をつくるのと同じことになるというところだろう(遺伝的な多様性が確保される)。ここで「復活」とは別の方向に妄想を膨らませて人間にまで拡張してみると、男同士で子供がつくれるかもしれないという別の欲望を刺激することにもつながるのだが。
●そしてさらに今度は、その遺伝的多様性という観点からクローン技術が取り上げられる。現在、日本に存在するトキは、すべてが中国から来た五羽のトキを祖先とするという。さらに言えば、今、世界に存在するトキのすべては、1981年に中国で捕獲された四羽のトキの子孫であるという。そこで、遺伝的な多様性を確保するために、絶滅した日本のトキの、クローンによる復活というのが考えられる、と(だがここには、ナショナリズム的な欲望も作用している感じもある)。
とはいえ、今のところ、鳥類のクローンは成功例が一つもないのだという。それには鳥類の多精受精(卵のなかに多数の精子が侵入して受精する)というメカニズムが関係しているのではないかと考えられるようになってきた、と。そして、鳥類のクローン成功まであと一歩というところまで来てはいる、と(とはいえ、実際にトキのクローン計画があるわけではないという点は、番組で強調されていた)。
●ここで浮上する問題は、クローンが成功したとして、クローンによって復活させた動物を、野生の環境に解き放つということが、倫理的に許されることなのかというところだろう。クローン動物が、実験室や動物園、あるいは家畜という形で(人工的な環境のもとで)存在することと、野生に放たれて、野生の動物たちのなかで自然に交配したり、補食したりするということは大きく違う。後者は、自然と人工との境を決定的に侵犯することになる(すでにそんな境は存在しないとも言えるが、決定的にそうなる)。これにはけっこう根強い反発があるのではないだろうか。
(そのあたりのことは、番組ではやんわりと、復活させた種を環境に返しても、彼らが生きてゆける環境でなければ意味がないという形でまとめていたけど、問題はそこにはとどまらないと思う。)
●それにしても、われわれはすでに、そういうことが(思考実験としてではなく)リアルな問題となるような環境に住んでいるのだなあ、と思うのだった。
●動物の場合、種ということが問題になっても、個ということはそれほどは問題にならない。しかし、人間では個(わたし)が大きな問題となる。わたしのクローンは、たんにわたしと同じ遺伝子をもつ個体であって、わたしではない。でも、現代の情報技術は、「わたしに関するあらゆる情報」をかき集めて「わたしを再現する(復活させる)」ということが、絵空事ではあっても、一定のリアリティをもつ絵空事という程度には身近になってきている。復活の日を待って冷凍保存される絶滅危惧種の細胞という事実は、復活の日を待って保存される「ありとあらゆるわたしの情報」というアナロジーを(どうしたって)生む。世界はますますキリスト教化する、のだろうか。
(勿論これは妄想だが、科学は必然的にアナロジーとしての妄想を生むし、それを斥ける必要はないと思う。)
復活した「わたし」は、たんに「わたしの再現」であって「わたし」ではないとも言えるが、しかしその「わたし」は、夜に寝て、翌朝目覚めた(再起動した)「わたし」と同じくらいには連続性があると考えることも出来る。