●昨日、「サイエンスゼロ」で記憶のメカニズムの話をやっていた。
マウスを「まるい部屋」に入れてその空間を記憶させ、それとはまったく別の場所で電流を流して「恐怖」の経験をさせる。この二つの別の記憶を神経細胞レベルで関連させてやる(二つの記憶を無理やり同期させる)ことで、マウスは「まるい部屋」に対して「恐怖」を感じるようになる。記憶を事後的、人為的に編集できるようになり、その過程の詳細なメカニズムも分かるようになった、と。記憶の外的操作の可能性。
PTSDの人は、トラウマ体験(例えば地下鉄サリン事件に遭遇した)と、それとはまったく別の記憶(例えば雑踏の記憶)が強く結びついてしまうことで、日常生活に支障が出ることになる。マウスとは逆に、この二つの記憶の関連性を切ってやることができれば、治療に繋がるのではないか、という話も出ていた。
でも、マウスの場合は、実験によって「まるい部屋」や「電流の恐怖」を与えられているから、その経験がなされている瞬間に大脳皮質のどの部分が働いていたのかを測定できるのではないか。実験によって与えられた記憶だから、大脳皮質の神経細胞における「その記憶」の領域が特定できる。
でも、既に形成されて、複雑に絡み合っているであろう、その人が生きてきて蓄積された記憶である場合、「ある特定の記憶」と、その記憶がもつ別の記憶との間のネットワークとを切り分けるのは、そんなに簡単ではないように思われるのだが、どうなのだろうか。
被験者に実験室に来てもらって、トラウマ体験を思い出すような刺激を与えることができれば、大脳皮質のなかのトラウマ記憶の領域が分かるのかもしれない。しかしそれは、トラウマ体験そのものの領域ではなく、既に様々な別の記憶との関連が出来てしまっている、その関連性のネットワーク全体の領域ということになるのではないか。
つまり、ある特定の経験の記憶だけを、他からきっちり切り離して取り出すことが出来るのだろうか、ということ。
(例えば、マウスにとっての「まるい部屋」の記憶とされていた領域、その細胞の分布は、本当にその「まるい部屋」だけに関する記憶なのだろうか。そこには「空間一般の記憶」に繋がる細胞もあり、それによって、「まるい部屋」だけでなく、予想もつかないまったく別の空間においても「恐怖」があらわれる、ということはないのだろうか。)
トラウマ体験だけに絞ってその領域を特定することが可能であるためには、それ以外の部分も、つまり大脳皮質全体にひろがる全記憶の分布とネットワークの詳細な構造をトレースできるようになる必要があるように思われるのだが。でもそれは、「わたしの全記憶」のほぼ完全な構造図のようなものがマップにできるということで、もしそれが分かるようになってしまったら、もう記憶に対して好き勝手になんとでも介入できる感じになるのではないか。
そのような意味で、井ノ口馨の言う、神経細胞レベルでトラウマ的記憶の関連を切断するという話は、越えなければならない高いハードルが多すぎて難しいというか、そもそもそんなことが出来るようになったら、トラウマ治療以外にもいろんなことが出来るようになり過ぎてヤバいのではないか。それよりも、利根川進の、鬱病の人に対して「よい記憶」のある辺りを活性化するように刺激するという、ざっくりした感じのやり方の方が治療法としての実現性は高いように思われた。
とはいえ、予算獲得や倫理的な要請から「何に役立つか」を常に言わざるを得ないとしても、科学者の目的やモチベーションは「役に立つ」ことにあるわけではなく、記憶のメカニズムを「より詳細に知りたい」というところにあるのだと思う。
わたしの全記憶の配置とネットワーク、その重みづけの地図が、神経細胞のレベルで完全にシミュレーションできるようになるというのは、意識のアップロードを可能にしようとする時に、まず最初に越えなくてはいけない第一歩であろう。
●それにしても、恐怖を植え付けられたり、過度なストレスを与えられたりする、おそらく膨大な数にのぼるであろうマウスたちの「クオリア」は、この宇宙のどこに溜まっているのだろうかということを思わずにはいられない(心身二元論、あるいは観念論が正しいとすれば、その「クオリア」たちはどこかに「在る」わけだから)。これは別に、実験を非難しているわけではない。