●『怪奇大家族』を久しぶりに観てとても楽しめた。ぼくは、清水崇の作家としての特徴は、(1)切り離されている(断絶している)ものの間に通路をつくること(あるいは、断絶させたうえで、通路−関係を繋げること)、と、(2)自己言及的なループをつくること、の二つだと思っているのだが、『怪奇大家族』もそのようになっていた。最後の最後で、幽霊や妖怪たちと人間が共存する場面の描写がとても美しいと思った。
自己言及的なループというのはたんなるループではなく、反転したものがもう一度反転して、結果が原因となり、原因が結果となることで、起源(原因)が消失してしまうような感覚のこと。この反転のところで、断絶した世界間での捻じれた通路の開けが起こっている。『怪奇大家族』では、清四の死の原因は清四の復活であり、清四の復活の原因は清四の死である。そして、現在時での清四の復活が幽霊たちを解放するのは、清四の復活のために死んで過去に追いやられた清四が、過去の時点で幽霊たちを解放したからだ、ということになる。
清水崇の場合は、そのような自己言及のループは、世界の片隅で、人知れず孤立した形で作動していて、たまたまそこにアクセスしてしまった人が、そのループに巻き込まれ、呪いに閉じ込められたりするという感じだと思うのだけど、高橋洋の場合は、そもそも「この世界」そのものがそのようなループ構造をしているのだ、となって、つまり、その呪いのループの「外」はない(日常などない)のだ、という感じになるのだと思う。たぶんそこが、幽霊好き系と宇宙人好き系の違いであるように思う。