●本屋でなんとなく気になって買ってあった角川ホラー文庫から出ている『バイロケーション』(法条遥)という小説を読んだ。かなり面白かった。作中で黒沢清の『ドッペルゲンガー』への言及があったりするのだけど、そういう感じのJホラーに近い雰囲気でありつつ(近い主題系を扱いつつ)、そこからもう一歩踏み込んでこの作家独自のこだわりと言える感触にまで行っている感じ。作中に出てくる加納という刑事は役所公司で、加賀美という青年は武田真治加瀬亮かなあ、とか思いながら読んだ。
バイロケーションとは、同時に二つの場所に「わたし」が存在すること。ドッペルゲンガーは、わたしがわたしを見てしまうという気持ち悪さだけど、バイロケーションは、わたしが知らないうちに知らないところでもう一人のわたしが勝手に行動してしまっているという気持ち悪さだ。だから黒沢清の『ドッペルゲンガー』もどちらかというとバイロケーションに近い。この小説では、オリジナルもバイロケーションもどちらも自分をオリジナルだと信じている(主観的には見分けがつかない)のだけど、後者は物質的基盤をもたず、いきなり現れ、いきなり消えてしまう。だから、物語の主題の感触としては『惑星ソラリス』に近い気もする。ただ、『惑星ソラリス』では、不意に現れる幻の人間は、主にその人物に会いたいと思っている人(幻−私ではなく他者)に対して作用する存在なのだけど(虚構−イメージとしての他者というような問題系だ)、この小説では、余所にバイロケーションが出現してしまう時に「わたし」がどう感じるのかということが主軸となる。「わたし」と「ここ」は同義であるはずなのに、「わたし」が「ここ」からズレていってしまう気持ちの悪さ。あるいは、「唯一」であるはずのわたしが「一」からズレて「二」となっていってしまう気持ちの悪さ。ただ、もともと人にとって「わたし」のモデル(イメージ)は他者であり、わたしは半ばわたしの外にあるとも言えるので(逆に言えば他者も半ば私だとも言えるので)、『惑星ソラリス』的な感触と完全には切り離されてはいないと思う。
だが、この小説が面白いのは、たんに「わたしはそもそも複数であり、わたしとわたしとの間には断絶がある」という感触の提示では終わらず、であるならば、「わたし」は「わたしの知らないわたし」とどのような関係が可能であり、どのように関係すべきなのか、というところにまで踏み込んでいるところだと思う。「わたしではないわたし」と「わたし」との間で、どのような折り合いが可能なのか(あるいは不可能なのか)、という問い。そしてこの時、わたしともう一人のわたしが、例えばジキルとハイド的な(光と闇的な)異なる性格を分け持つ二重人格のような関係ではなく、あくまてでどちらも「同じわたし」である点は重要だろう。
おそらくこの小説で最もすぐれた場面は、オリジナルとバイロケーションである二人の御手洗が会話し、妥協を得る場面であろう。多くのエンターテイメント作品に対してぼくは、物語を収束させる終盤のクライマックスに退屈を感じてしまうのだけど、この作品では、終盤部分こそが最も充実しているように感じられた。この終盤部分が書かれるためにこそ、そこへまでの積み上げがあったのだと感じさせられる(正直言えば、人が次々と殺されてゆく中盤部分の展開は、エンターテイメントの要素としては派手でいいのかもしれないが、作品の主題的にはやや逸れてしまっているように思われた)。
それともう一つ、この小説は、バイロケーションに対してわたしが感じる脅威だけでなく、わたし(オリジナル)に対してバイロケーションが感じる感情をも問題にしている点が重要だと思う。この反転が焦点化されるからこそ、わたしとバイロケーションとの妥協点という視点が可能になる。わたしとバイロケーションとの分裂は、例えば、「行為するわたし」とそれを「外から見ているわたし」のような階層的な分離ではなく、同等であり同型であるからこそ最も遠いというような反転可能な裏返しの関係だろう。わたしを見ているわたし、を見ているわたし、を見ている…、という風に無限後退する階層と、あなたのあなたとしてのわたし、あなたのあなたのあなたとしてのあなた、あなたのあなたのあなたのあなたとしてのわたし、という風に、関係が無限に折り返す反転との違い。
バイロケーションは勝手に現れ勝手に消える。よって、バイロケーションの行為の責任は(それをまったく知らない)連続して存在するオリジナルに負わせられる。これはオリジナルにとって理不尽であろう。こちらの方向からだけみれば、物語はオリジナル側の脅威と恐怖の話となる。しかし、バイロケーションが消えてもオリジナルは消えないが、オリジナルが消える(死ぬ)とバイロケーションも消え、二度と現れることが出来ない。バイロケーションにとっては存在の連続性が保証されないことが脅威であり恐怖である。そしてこの二方向からの異なる恐怖と脅威とは、相互に反転可能であり、その反転を制御することはどちらの側もできない(「わたし」が「わたし」として現れる度にその都度、その「わたし」はどちらの側でもあり得るのだ)。しかしこの「反転が制御できない」という事実こそが、オリジナルとバイロケーションの唯一の対話可能性の根拠となるだろう。常にバイロケーションでもあり得るオリジナルの「わたし」と、常にオリジナルでもあり得るバイロケーションの「わたし」の断絶(差異)と反転可能性だけが、双方の対話のためのか細い繋がりだ。
この作家の小説はもうちょっと読んでみたいと思った。
●『ロボティクス・ノーツ』最終回。驚くべきことは何ひとつ起こらなかった。広げた風呂敷はとりあえずはちゃんとたたみましたよ、という律義さ以外のものを見出すことは出来なかった。とはいえ、この作品の面白さは終盤にあるのではない。というか、終盤を観ているうちに序盤に感じていた様々な可能性を忘れてしまった。またの機会に通して観て、改めて考えたい。