●『たまこまーけっと』十一話。
たまこの「天然」さとはつまり、自身のテリトリーとアイデンティティとを絶対的に防衛しようとする働きからきている。この、揺らぐことのない「たまこナショナリズム」は、例えばもち蔵やみどりのたまこへの感情を「なかったことにする(気づかないことにする)」ことによって成り立つ。あるいは、「たまこ、幸せになれよ」という父の言葉を、「たまご、にわとりになれよ」と強引に(半ば意識的に)聞き違えることで成り立つ。鉄壁のガード。たまこの、商店街ともち屋への執着は、自身の過去と記憶への忠誠と服従を表わしている(例えば母の鏡台への献花)。周囲の人物すべてを、自身の過去と記憶をもとに配置し、世界がその軌道から逸れようとすると、そのズレを「なかったこと」にする。たまこは、この世界から一歩も出ないと自らに誓い、その法によって周囲の世界の安定(絶対的たまこ王朝)を維持する。世界は、世界を自らの過去と記憶に従わせようとするたまこの高度なパフォーマンス能力(「たまこ」という天然キャラの成立)によって維持されている。
強力なナショナリズムは、外から来る者を排除するのではなく同化する。デラは、当初の目的をすっかり忘れて商店街の一員になり、つづいてやってきたチョイもまた、たまこやその家族、友人たちに溶け込んでゆく(とはいえ、同化のプロセスはそれ自体で軽い摩擦やダイナミックな動きを生み、この作品を活性化させていた)。しかし、彼らに埋め込まれた「目的」は潜在的な次元では作動しつづけていた。敵は、一見同化したようにみせかけたまま、暗黙裡にそのナショナリズムを切り崩すプログラムを作動させていた。もちによって太らされて無効化したデラの通信機能は完全に機能停止はしていないし、たまこの友達たちの一員に溶け込んだチョイもまた、王子への忠誠と目的を完全に忘れたわけではない(王子と同じ花の匂いがそれを再起動させる)。このように、顕在的たまこナショナリズムと、潜在的対抗プログラムという二つの異質な原理の同時作動があり、それがこの作品に、単純なゆるふわ系の作品とは異なる複雑な動き――諸要素間の相互作用――を生んでいたと思われる。
一見、取り込まれたかにみえたナショナリズムを内側から切り崩すプログラムは、とうとう正確に(この世界の)中心点を探り出し、そこに攻撃を仕掛ける。「たまここそが王子の妃だ」と。この、「内化された外」からの攻撃によってたまこは、この作品がはじまっておそらくはじめて、大きな揺らぎをみせる(もち蔵と糸電話で話した後のたまこの姿は、この作品中ではじめて素が出たと言えるものではないか)。それによって世界の安定を失ったたまこの友人たちも、まるで宇宙の深淵を覗き見たかのような不安に直面する。そしてたまこは、攻撃に対する抵抗として、百枚も蓄積された商店街のスタンプカードを持ち出す。小学生の頃から貯めていたというこの多量のスタンプカードこそが、たまこの過去と記憶の厚みの物象化であり、それと交換されたメダルはたまこのアイデンティティそのものでもある。つまり、わざわざこんなものを持ち出さなければならないほどに(たまこのパフォーマンス能力だけでは乗り越えられないほどに)、たまこナショナリズムは危機を迎えている。
だが、たまこはそのメダルを紛失してしまい、こともあろうにそれを再びたまこのもとへ返すのが、ナショナリズムを危機に陥れたプログラムの根幹である王子なのだった。この出来事が、次回の最終話でどのような展開と収束をみるのだろうか。