●「ポニョ」をDVDで観た。2008年に歌舞伎町のスカラ座で観て以来。よっぽど覚悟を決めないと再見できない作品なので。
開いた口がふさがらないというか、本当の意味で頭のおかしくなった人にしかつくれない作品だと思った。観ながら思い出していたのは『14歳』(楳図かずお)で、これもまた、人間が普通に生活するにおいて重要な何かを――あくまで「作品」という場において、ということだけど――振り切ってしまった人にしかつくれない作品だと思う。作品に対する「制御」を(ということは、自分自身の無意識への検閲を、ということだと思うけど)ここまで放棄するのは並大抵のことではないんじゃないだろうか。
●ポニョはへび少女であるだけでなく、チキンジョージでもあると思った。実際、ポニョとチキンジョージは、その生まれ方も、姿も、グロテスクな欲望も、行動への異様な推進力も、とても似ている。半漁人ポニョは両生類であると同時に雛鳥みたいなイメージもあって、半漁人なのに何故かニワトリの脚をしている、とか。魚から人へとメタモルフォーゼする途中に鳥のイメージが混じるというのはかなり異様な感じだ。ポニョやチキンジョージという形を得たある力が、作家から作品に対する制御という枷を外させてしまったという感じだろうか。
●ここまで書いて、これじゃあただ「圧倒された」とだけ言っているのとまったく変わらないと思って、仕切り直して、もう一度はじめから観直してみたのだけど、さらに圧倒されてしまった。
アラを探せばきりがなくて、実際観ながら何度も「これはちょっとないんじゃないか」とも思うのだけど(保育園の女の子のキャラとか「何それ」という感じだし、そもそも主役の宗助をどうしても好きになれない、とか)、そういうアラがすべて押し流されてしまうくらいにすごい。逆に、ここがすごいというところを次々と数え上げていったとしても(水の表現がすごい、雨粒のはね返りまで描いているところがすごい、常に隅々まで絶え間なく動いているのがすごい、等々)、この作品のすごさは表現できないという感じもある。とにかく、何かの箍が外れちゃってる感じがすごい。足もとにある地面が常にぐらぐら揺らがされているという感じ。
●それでもう一度観た。今日だけで三回繰り返し観たことになる。
●例えば、宗助は人の顔を持った(舌をもっていて指を舐める)魚を「金魚」として自然に受け入れる(まず、海に金魚がいるのもおかしいのだけど)。子供の宗助だけでなく大人である母親もまた、それを不自然には感じていない様子だ。だとすれは、「ポニョ」の世界はそういう世界として成立しているのだろうと観客は理解する。つまり、キャラクターとしてポニョは「顔」を持っているけど、それは登場人物たちには普通の「金魚」に見えている、あるいは、金魚が顔を持っていてもそれは受け入れられる範囲内だという世界として作品世界は設定されているのだろう、と。しかししばらくすると、トキというお婆さんがポニョを見て「人面魚じゃないか」というそのまんまの(リアリズムの)反応をする。観客は、「え、それは言わない約束なんじゃないの」と戸惑うことになる。この場面だけで、この作品が、基底面から破綻しているものであることを感じる。つまりこの作品には、ある統一された「世界像」を成立させるための「お約束」が成り立たない。根底から狂った(安定性のない)世界なのだ、という不穏さを感じる。作品を動かす「力」が統制されていない、きれいに加工されていない。
たまこまーけっと』で、トリであるデラが喋ると、一応みんな「えっ、トリなのに喋るの」と驚くのだけど、その程度の驚きで受け入れられる。つまりこの世界では、トリが喋ると一応驚きはするものの、それは受け入れられる範囲内の出来事なのだというお約束が成立している。しかし「ポニョ」でトキさんは、「あれっ、魚なのに顔があるのかい」という程度の違和感ではなく、「人面魚」とか「気味が悪い」という露骨にリアリズムな言葉を使い、露骨にリアリズムの反応をしてしまう。しかしもう一方には、それを普通に「金魚」として受け入れる人たちもいる。「ポニョ」という作品は、一つの基底面に描かれた図柄ではなく、複数の異質な基底面が陥入している上に描かれている。お約束の起点がどこにあるのかが最後までよく分からないまま進む(例えば、ポニョの魔法が効かなくなって、拡大されたおもちゃの船が元のサイズへと縮んでゆくとき、もともと原寸大だったはずの、宗助の父の帽子や宗助の双眼鏡まで一緒に小さくなってしまうのだけど、これは「お約束」から外れてしまっている)。つまりお約束はその都度、その場面ごとに更新されている。ファンタジーとしては破綻している。だからこそ、作品に様々な力が流れ込んでくることが抑制されない。
そもそも「ポニョ」の物語は、ポニョの反乱によって世界の裂け目が開いてしまって、世界が無秩序に陥ってしまうという話なのだけど、作品そのものがほとんど無秩序に近づいている。ほとんど無秩序に近づきながらも、そこからギリギリの何かをつかみ出している。この力技がすごい。
●とはいえその一方で、ポニョは普通に赤ん坊が生まれる話だとも言える気もする。この話は、今まで一人っ子だった宗助に妹が生まれたという出来事を、心的なリアリズムとして描いただけ、とも言えるのではないか。人間以前のもの(形の定まらない力)が人間になってゆく(ある形に固定されてゆく)過程と、今まで存在しなかったモノ(人)を、この世界が新たに一つ(一人)受け入れるまでの過程とが重なっている、と。
●ただ、余計なお世話だけど、この話が終わった後に、ポニョと宗助が上手くやっていけるとは、どうしても思えない。