●お知らせ。『吉本隆明論集 初期・中期・後期を論じて』(金子遊・編)という本に「「関係の絶対性」と「不可避の一本道」をめぐって/倫理と知と自然」というテキストが収録されています。以前、「やま かわ うみ」に掲載されたものです。この本は執筆陣の組み合わせがちょっと不思議な感じです。
http://www.webarts.co.jp/book/book_083.htm
ここでぼくは、「マチウ書試論」にあらわれる「関係の絶対性」という概念と、『最後の親鸞』にあらわれる「不可避の一本道」という概念が、ほとんど同じことを、しかしそれぞれまったく逆の方向から表しているということ、そして、前者が倫理を、後者が知(知の一種としての非知)という側面を照らし出すとすると、それらの概念が自然(この宇宙の必然的な合理性)という概念とどのようにして距離をとろうとしているのか、ということについて書いたつもりです。つまり、宗教論である「マチウ書試論」と『最後の親鸞』にはどちらにも、「自然」に対して、行為や知がどのように関係することができるのか(人間の行動や心的構造が自然とどのように関係するのか)というモチーフがあり、それぞれが逆方向からそれを探求している、と。
ただこの論考では、「自然」については、「倫理とも知(非知)とも違うもの」として提示しているにとどまっていて(『最後の親鸞』では非知はあくまで「知」の範疇にあり、自然――自然的な人間――は非知に対する「愚」としてあらわれているように思う)、吉本的な「自然」についてもっとつっこんで考えるためには、さらに『カール・マルクス』を読み込む必要があると思うのですが、このテキストを書いた段階では、そこまでは行く余裕がなかったということです。
●『たまこまーけっと』最終話。絵に描いたような典型的な「最終回」だったけど、この作品はこれでいいんだろうと思う。ただ一方で、こういう終わり方は、長くつづいたアニメの終わり方という気もするので、12話しかない作品でこれはやや強引という感じもあるかも、とも思う。
改めて観直すとまた違ってくるかもしれないけど、やはり2話と10話が飛び抜けてよかったと思う。4話、9話、11話も悪くない感じ。それらに比べると最終話はややキレが悪いかもしれない。
シリーズを通して「母の不在」の表現がとても上品で、しかも効いていたように思った。こういう作風で12話完結というのはどうしても中途半端な長さ(長く続く一話完結モノでもなく、12話全部で一まとまりという感じも弱く…)のように思えてしまうのだけど、全体を通して母の不在の表現が少しずつ重ねられてゆく(というか、母の不在が基底にあって、その上に乗っかることで作品世界が成り立っていることが徐々に明かされてゆく構造になっている)ことが、各話を関係づけ、全体を貫く統一感を生んでいた。最終回でも、商店街がみんな休業しているという光景が母の死の日の記憶と重ねあわされ、ここでたまこの記憶とテリトリーへの執着の底に母の不在があることがはっきりと示される(しかもそれをほとんど「説明」しないところが上品だ――9話ではちょっと説明し過ぎた感じもあるけど)。それにより、たまこの揺らぎ(たまこナショナリズムの危機)は回収され、たまこの態度(記憶とテリトリーへの執着)がいかにも最終回的な雰囲気のなかで改めて肯定される。あるいは、再帰的に自己言及される。もし、シリーズを通じてずっとささやかに響いていた「母の不在」が効いてなかったとしたら、凡庸な最終回のように感じられてしまったかもしれない。というか、この作品はそもそもはじめから、結論(落としどころ)としては凡庸、表現としては冴えがあり繊細で高度、というところが目指されていたのだと思う。
それにしても、これだけのキャラクターたち、これだけ設定を、12話で終わりにしてしまうのはもったいないなあと思う。