●ひどく暑かったけど一雨きてずいぶん楽になった。アトリエで、実家からもらってきた蚊取り線香を焚く。か細い煙がゆったりとたちあがる。
●《飢えて死ぬ者たちにとって、必要で充分なことは飢えない現実を出現させることである。親鸞の思想は、ほとんど絶対的にといっていいほど、その具体的な処方をつくっていない》(吉本隆明「最後の親鸞」)。親鸞は、知によって現実的な次元で《飢えて死ぬ者》を救おう(救える)とは考えていない。あるいはそこに生きる希望を与えるようなマジック(加持祈祷の類)も否定する。いわば現世的な意味での救いをいっさい認めない。どのような現世的な救済も中途半端なものに終わるしかないとして退ける。しかし、一遍のようにひたすら死としての浄土へ向かうのでもない。
現世的現実の因果関係の一切をそらごととしてそこから意味を剥奪したうえで、それを浄土へと導かれるための「機縁」とすることで今度はまるごと肯定する。いくら念仏をとなえてもこの苦しい現世への執着は消えず、ちっとも浄土にゆきたいという気持ちにならないという問いに、親鸞は、それは煩悩(「苦悩の古里」への執着)があるせいだと言い、しかし仏は煩悩があるものこそを往生させようとするのだから、そのような者こそ浄土にちかいと応える。念仏をとなえた時点で浄土への道は約束されているのだから急ぐことはない。煩悩の世界をただ生きれば、それが弥陀仏からつづいている浄土への契機としての機縁の道なのであり(これは「不可避の一本道」とされ、いわば「関係の絶対性」を裏返し、それに抗するような概念となっている)、機縁が尽きたらその時点で死を受け入れればよい、と。現世そのものに意味はないが、一人ひとりの生は浄土への過程としてはすべてが必然であり、その意味でまるごと肯定される。「最後の親鸞」超渋い。