●本のための原稿が無事、編集者に届いたようだ。今度の本で、その底にずっとあるのは、「現実主義」に対してフィクションがどのように対抗できるのかということ。ここで「現実主義」というのはけっこう複雑な意味がある(たとえばポストトゥルース的状況こそが、現実主義の台頭を表現していると思う)。どのように現実をよりよいものに変えていくのかを考えることが困難となり、今ある現実のなかで、どのように振る舞えばより多くの利得がもたらされるか、今ある条件のなかでどのようにサバイブしていくのか、としか考えられなくなるような状況を現実主義的状況と考える。
たとえば、フィクションを社会の反映のようなものとみなしたり、「炭坑のカナリア」のようなものとみなすことも、現実主義に含まれる。
これは、フィクションが現実を反映しないという意味ではない。実際、今度の本は、「見立て」としてのフィクションのリアリティが時代の推移のなかでどのように低下していったかとか、インターネットという技術がフィクションのありようにどのような決定的な変化をもたらしたかということについて書いている。フィクションのありようが、社会のありようの変化とともに変化していることは事実だろう。
しかしそうだとしても、フィクションというものを、(危機への警鐘であろうと、希望を見いだすものであろうと)「現実」の変化を感知するための兆候やセンサー(炭坑のカナリア)として扱うことは、フィクションに対する過小評価ではないかとぼくは思う。
フィクションの意味とは、そうであり得たが現にそうではなかった別様の歴史を考え、それによって、「この現在」とは別様の、そうであり得たがそうでなかった「別の現在」をいま、ここに召還し、それを通じて、「この現在」との連続性のなかでは実現しそうもない、別様な未来をも考えるというところにあるのではないかと思う。
それは、フィクションが現実の兆候としてあるのではなく、フィクションが可能性として現実のなかに織り込まれているということ(あるいは、フィクションを可能性として現実のなかに織り込んでいくということ)を意味する。フィクションが現実に織り込まれることで、歴史が複数化され、現在が複数化され、わたしが複数化され、それにより「現実」は、重ね合わされた、諸歴史の関係、諸現在の関係、諸わたしの関係というようなものになる。
もちろん、それで「一つ」である「この現実」「このわたし」が完全に相対化されるわけではないとしても。
(それが「一つ」であるかどうかは分からないが、われわれが「現実」という非常に強い何かに拘束されていることは間違いないだろう。)
「現実」を「変え得るもの(別様であり得るもの)」として考えるためには、以上のような意味でのフィクションが必要なのではないかと、今度の本を書くことを通じて考えた。