●『最後の親鸞』との関係を意識しながら「マチウ書試論」を読み返してみた。ここで吉本隆明は、原始キリスト教の思想の内容のほとんどをユダヤ教からの剽窃としながらも、原始キリスト教の新しさ(正しさ)を、ユダヤ教-原始キリスト教の「関係」においてのみあるという形で取り出そうとする。ユダヤ教(現実的な権力や習慣)との関係のうちにおいてのみ、原始キリスト教に正当性があるということは、ユダヤ教との戦いに勝利してしまった後のキリスト教には(少なくとも原始キリスト教が持っていたような意味での)正当性はないということになる。「思想の内容」はまったくかわらないとしても。
このような分析のなかから、高名な「関係の絶対性」という概念が導きだされるのだが、ここで吉本隆明が、「関係の絶対性」という概念を、思想の正当性(倫理性)は、ユダヤ教との関係のうちにあったキリスト教のような状況にしかあり得ないという意味でのみ用いるのだとすれば、この思想はたんに「不断革命」を要請するロマンチックなものになってしまう。実際、《自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、自分の発想の底をえぐり出してみる》と書かれる時、そのようなロマンチシズムに陥っているように思われる。
しかしこの「マチウ書試論」にはそのようなロマンチシズムから脱するためのヒントがいくつも書き込まれているように思われる。なにより、「関係の絶対性」という概念そのものが、ユダヤ教との緊張関係のなかにある原始キリスト教から導き出されつつも、原始キリスト教的な「正しさ」の批判でもありえる可能性をもっている。《この矛盾》の乗り越えの根拠が、自分の《発想の底をえぐりだ》そうとする「ぼく」たちの意志(主体)の場に求められる限り、この中二病的なロマンチシズムはかわらない。そうではなく、ここに、あらかじめ《この矛盾》を繰り込んだねじれた構造を見いだし、「ぼく」たちの意志こそがこの構造の産物であるとするならば、少なくとも中二病は消えるしかなくなる。このテキストでは奥の方からちらっとのぞくだけだが、「自然」という言葉に込められた不気味な感触が、このような読みを正当化するだろう(だがこう言ったとたん、「構造主義」に向けられたいくつもの紋切り型の批判がここで反復されることになろう)。
「関係の絶対性」という概念が重要なのは、秩序か反逆か、構造か主体かという二分法の外に出ているからだろう。関係の絶対性のなかで主体が《底》からひっくり返されるような「自己批判」に迫られる(これはそれ自体としてとてもナルシシズム的な事柄だ)、ということではないのだと思う。
『最後の親鸞』でも「マチウ書試論」でも、相対性と絶対性という言葉が、ひどくわかりにくく使われる。関係の絶対性とはつまり、「関係」という相対的、偶発的なものこそが、一人一人の主体(的行動)を絶対的に規定している(誰もそこから逃れられない)ということだ。それに対し、原始キリスト教親鸞絶対他力の思想も、神/仏との関係を絶対化して、現実や現世の出来事のすべてを「幻」として相対化することで、「関係の絶対性」を相対化しようとする思想として捉えられている。「神/仏との関係の絶対性」と「(人間と人間との)関係の絶対性」という二つの「絶対性」は逆を向いて拮抗している。中途半端な「関係の絶対性」の相対化は、まさに「関係の絶対性」の「絶対性」を証明するだけだが、それに唯一拮抗し得るものとして「神/仏との関係の絶対化」が配置されている。
この配置に、秩序(構造主義)でも反逆(実存主義)でもない道が示唆されているのではないか。
そしてここでさらにおもしろいのが、「関係の絶対性」と拮抗する「神/仏との関係の絶対性」という思想が、非常に困難で不幸であった時代のなかから、その時代状況と切り離せない形で生まれてきたということが書かれている点だ。いっさいの相対性(関係の絶対性=現実)を無効とする絶対的な絶対性(神/仏との関係の絶対性)という思想が、時代状況という相対性のなかからこそ分泌されるのだ。ここでまた「絶対性」と「相対性」の地位(いわば図と地が)がひっくりかえる。
{「関係の絶対性」対「神/仏との関係の絶対性」}という構図そのものがより上位の「関係の絶対性」のなかに含まれ、おそらくこの上位の関係の絶対性は「自然」という絶対性と拮抗する。このようにして、絶対性と相対性とは入れ子となり、ひっくりかえりながら、その位置を置換しつづけることになる。そのような構図としての絶対性と相対性との配置を吉本隆明は描いているのではないか。
さらにここで、「関係の絶対性」に抗するものとしての「神/仏との関係の絶対性」という思想が、一方で原始キリスト教のような激しく攻撃的で排他的な形をとる場合と、親鸞絶対他力のような、それとはまったく逆の形をとる場合があるということだ。そして、「マチウ書試論」でも(とても唐突な形で)ちらっと出てくる「自然」という不気味な概念が、後者に深くかかわるように思われる。