●なんか、『日本の夜と霧』(大島渚)を観たことは、自分で思っている以上にぼくにショックを与えているようだ(16日の日記参照のこと)。
●世代を細分化する語りは常に退屈だと思う。世代を細分化する語りが言いたいのは、要するに「俺らの世代は特別だ」っていうどうでもいい自意識に過ぎない。「俺らの世代の前と後とでは世界が大きく変わったのだ」と思いたい、つまり「俺らは特別の存在だ」という。
勿論、世代の違いによる解消出来ない差異はある。しかし、それはどんな世代間にも常にあるものでしかない。また、世代間の社会的な場での利害の対立というものも、決してなくなることはない。しかし、「決してなくなることがない」ということは、常にあるということで、そんなの全然特別なことではない。ありふれている。たんに世代間の利害の対立(古い世代に対する新しい世代の利害闘争)という古くさくてありふれたものを、あかたも革新的、革命的なもののあらわれであるかのように扱う言説は害悪だとすら思う(それは適切に処理されるべきごく一般的な政治的課題に過ぎない、勿論、それは、そういうものとして重要な問題ではあり、ありつづける)。
●ぼく自身、自分の世代的限界というのは日々強く感じている。それはおそらく「客観的」に存在する。しかし、世代(世代的限界、世代的特質)は、たんに事実であり、私と世界とのかかわりを限定する(物質的な)諸条件の一つであって(例えば、今月はお金がないから演劇を観に行けない、というのと同様のこと)、それをアイデンティティの支えや根拠としてはいけないのだ(世代論を語る者は、世界−社会を語るフリをして自分を語り、それによって世界−社会を観念的に我有化する、「私の気持ち」を世界に貼り付ける)。
●世界と私との関係。世界のなかでの私の位置。この世界のなかで私に可能なこと。これらは、私の生にとっては最重要課題だ。このような次元無しに人は生きることが出来ない。しかし、それと、世界そのものを分析−分節することと、あるいは、世界が「このように」あることそのものとは、まったく別のことだ。世界のなかでの私の位置は、私にとってはとても重要なことで、その重要性は簡単には相対化できない(簡単に相対化出来ると思っている人こそが、私と世界とを混同する)。しかしその重要性は、私にとってのものであって、世界にとっての重要性ではない。
●何日か前の日記に書いたことの繰り返しだけど、一個人としての科学者の飽くことのない日々の研究や努力の持続を支えるのが、幼い頃に読んだ「鉄腕アトム」だったとしても、世界の探求としての科学と「鉄腕アトム」とは何の関係もない。
●革命っていうのはおそらく、世界そのものの変容の過程のことであって、「私(私たち)」の側(私たちの意志、私たちの思想、私たちの覚悟、私たちの行為の側)にあるものではないのだ。だから、それを決してアイデンティティや自己正当化に利用してはいけないのだと思う。「革命的な私」であることを「私」の支えとしてはいけないのだ。理念や政治や運動や「正義」を自己実現の道具としてはいけないのだ。もし革命的であるということがあり得るとすれば、ただ世界に寄り添うことによって、(本当は避けたいのに)結果として革命的であることを(いつの間にか)強いられてしまっていた、という形でしかあり得ないのではないか。それは世界を変えるのではなく、世界と共に変わってゆくという過程のことではないか。