●前にも何度か書いたことがあると思うけど、ぼくは川村記念美術館のロスコ・ルームにはやや批判的だ。簡単に言えば演出過多だと思う。あの場所に立って感じる色彩の圧力の多くは、作品そのものからくると言うより、作品のサイズや数に比べて部屋が狭い(細長い)こと、それも、中央にソファーがあって、拡がりというより、楕円状の廊下みたいになっていること、床が黒いこと、照明が暗いこと等からきている。まあ、照明が落とされていることは作品の保存上仕方ないのかもしれないのだが(ロスコの絵は、ロスコが無茶苦茶な絵の具の使い方をしていたせいですごい勢いで退色していると聞いたことがある)。
良い展示というのは、その作品が実現していることがより明確に見えるように展示することであって、過剰な演出によって作品に下駄を履かせることではない。絵画は、どこかしら特定の三次元の空間内に置かれて観られるしかないし、そうである以上その空間の影響を受けるのだが、(絵画が空間を演出するならともかく)その空間が絵画を演出してしまってはいけないと思う。あの状態は、もしロスコ自身が望んだことであったとしても、ロスコの作品が望んでいることとは違うと思う。とは言え、ロスコの作品そのものにも、あのような過剰な演出を呼び込んでしまうような要素(弱さ)があることも否定できないけど(念のために付け加えると、ぼくはロスコがすごく好きです、が、あのようなことを許してしまうロスコはいただけない)。
一方、今はニューマン展の一部として組み込まれているけど、いつもはその作品のためにつくられた特別の部屋に展示されている「アンナの光」は、その過剰演出がそれほどは気にならない。ニューマン・ルームの空間の作り方もまた、やり過ぎだと思われる演出が施されているのだが、そのことでニューマンの作品そのものが下駄を履かされているという感じはあまりない。これは、そもそも、ロスコとニューマンの作品のあり方の違いなのだと思う。ニューマンの作品は、確かに神学的と言ってもいいところがあるけど、だからこそ、安易な「神秘的な雰囲気」からは厳しく自分自身を切り離している。非寛容的な厳しさがあって、周囲の環境に簡単には溶け込まない。
●ニューマン展の最後のところで、ニューマンのインタビューや対談の映像がプロジェクターで投影されている。そこでニューマンはかなり多弁である。ちょっと喋りすぎではないかと思うくらい、自作について喋っている。でも、この多弁さは、言葉によって作品を正当化しようとか、もっともらしい理屈で作品に下駄を履かせようとしているのではないと思う。おそらくニューマンは、あまりに長く不遇であり、自分の作品があまりに人から理解されない(非常に理解されづらいことをやっている)という思いが強くあるのだと思う。だから、喋ったり書いたりする機会があると、思わず過剰に(ちょっとあやしいとも言えるかもしれない)説明を、一生懸命にしてしまうのだと思う。
それと、ニューマンはその作風上、決して多作な作家ではなく、おそらく、まったく制作をしていないという時期も長くあるのではないかと思う(その時代としてはまったく前人未踏なことをやっていたので、一つ一つのことをいちいち何度も確かめながら進まなければならなかった)。そのような時期に、中途半端な作品をつくってしまったりしないように、言葉を使うことでそれをやりすごす、という感じもあるのだと思う。
ニューマンの多弁さは、おそらくその孤独ゆえの多弁であって、何かを「世に問う」というようなアーティストの多弁とはまったく異なるものだと思う。
●古い友人からメールをもらって、川村記念美術館に行く時、休日ならホリデーパスを使えば2300円で行って帰ってこられるよと書いてあった。知らなかった…。
●関係ないけど、こんな曲があったことを知らなかった。高見知佳セザンヌの絵」(http://www.youtube.com/watch?v=FWvMeKPFmqo&feature=related)。