2025-02-03

⚫︎川村記念美術館が終わる前に、もう一度行けるだろうか。

川村のロスコルームを、ぼくはロスコとしては決して良い作品だとは思わない。というか、批判的ですらある。ロスコは、本来あんなに深刻ぶったり、神秘ぶったりする作品を作る作家ではなかったはずだ(残念ながら晩年にはそうなってしまったが)。

たとえば、下のTOKYO ART BEATの記事を観てもらいたい(記事にある展覧会をぼくは観ていないが、ロスコの作品をある程度は観ている)。写真では作品の素晴らしさが充分には伝わらないと思うが、中期(50年代くらいまで)と、後期(60年代以降)との、作品の質的な変化は写真でも感じ取れると思う。

www.tokyoartbeat.com

中期までの、脳がとろけてしまって、それを観ている身体が消失してしまうかと思えるほどの色彩(配色)の冴えに比べ、後期は、ただ暗く、重たく、鈍くなっていく、この質的変化は比べてみれば一眼でわかるくらいに自明であるように思われる。記事でいうと、「作品に没入させる空間へのこだわり」という小見出しの、前と後との時期で大きく変わっていってしまう。

晩年のロスコは、深く、静謐になっているのではなく、ただ暗く、鈍くなって、その分、演出過多になっていく。色彩の感覚が磨滅していく。明るい色彩を使ってみても、どこかぼやっとして、中期の冴えはもはやない。晩年のロスコは、必要以上に深刻ぶっていたり神秘ぶっていたりするように、ぼくには感じられてしまう。

(多かれ少なかれ、このようなミスティフィケーションの危うさは、抽象表現主義の作家に共通してみられるものだ。ゴーキー、デ・クーニング、フランケンサーラーを除いて。)

(後続するステラやラウシェンバーグには、そのことへの反発があっただろう。)