●竹橋の、国立近代美術館にポロック展を観に行った。思ってたよりかはいい展覧会だった。確かに、47年から50年くらいの絶頂期の、ポロックの最高到達点と言えるような大作が一点もないので、これでポロックを観たと言えるのか、という不満はある(「インデアンレッドの地の壁画」はポロックの最高到達点とはとても言えない)。「五尋の海の底」も「伽藍」も「くもの巣を逃れて」も「ラベンダーミスト」も「秋の韻律」もないのだ。ポロックの「一番すごいところ」をなんとか感じられるのは、「ナンバー11」と「ナンバー7」くらいだと思う。ただ、その代わり、いわゆるポロック、ポロックと言えばこれだと思い浮かべるような「ポロックの一番すごいところ」に収斂されるモダニズム的なポロック像とは違った可能性や、ポロックという画家の才能の厚みを感じることが出来るという意味で、とても面白かったし、興奮した。
例えば、初期は特に、絵の具を使うと色が濁りがちなところのあるポロックだけど、モザイク画では意外な色彩感覚がみられる(他にも、ポロックの意外な色彩感覚を感じられる初期作品がいくつかあった)。それに、モザイクはその特性上、自然にネガティブライン(下地の色が事後的に「線」となる)が生じるので、それが後の「モダニズムのポロック」における「地」の使い方につながっていく感じが見て取れる。モザイク画の経験は意外に大きいんじゃないだろうか。
初期のポロックは明らかにシュルレアリスム的で、しかしそれはヨーロッパの芸術経由のものというより、ネイティブアメリカンへの人類学的な興味からきていることが強く感じられる。そういうことは知識としては知っていたけど、実作を観ると、その興味がガチであることがより強く感じられる。例えば、ニューマンやロスコやルイスのシュルレアリスム的傾向は、習作(あるいは教養)といった感じが強くて、いわゆる、完成された(モダニズム的)ニューマン、ロスコ、ルイスの作品との間には断絶が感じられるのだが(ロスコの場合は、やや繋がっているけど、ルイスは初期作品のほとんどを捨てしまっているし)、ポロックの場合は、モダニズム的な「ポロックの一番すごいところ」と初期のシュルレアリスム的傾向が切れ目なく連続的であることがよく分かる。ポロックからピカソの影響を見て取ることは簡単だけど、確かに「形式」としてはピカソに依るところが大きいとしても、「トーテム・レッスン2」のような作品を観ると、ポロックとピカソとでは見ている方向がまったく違うと感じる。ポロックは確かに、ヨーロッパのモダニズムに「形式」的に助けられたけど、見ていた(目指していた)方向はそっち(ピカソやマティスやミロ)じゃなくて、最後までずっとネイティブアメリカンの方だったんじゃないだろうか。そしてそれは、絶頂期を過ぎた、晩年のすごく苦しんでいる時期にこそ、もっとも高い緊張とともに強く感じられる。この時期の作品は、たんなる退行や初期回帰ではなく、ここから先が本当のポロックの可能性なんじゃないかと感じられる。それはもはやモダニズムのなかには収まらないものだったのではないか(そしてその事実は「トーテム・レッスン2」から既に明らかなのではないか)。とはいえこの時期はやはり迷走期だったらしくて、あまり本質的でないことをいろいろ試したりしている痛々しい感じもある。ポロックは最後まで、様々な異なる要素や多方向に向かう力に引き裂かれるような、整理されない、洗練されない画家だったのだと思う。矛盾する多方向への力が奇跡的にうまく調和したのが、47年から50年という短い時期だったのではないだろうか。
この展覧会でもっとも感銘を受けたのが、最後のところに展示してある、棉のロウキャンバスに黒一色で描かれた作品たちだった。なんというか、他人事とは思えない、他人が描いた絵とは思えないくらい、ポロックの「やりたいこと」が分かってしまう(勿論、たんなる錯覚かもしれないのだけど)感じ。ポロックがこれらの作品で何をやろうとして、どこが上手くいかなくて苛立ち、どんなところに希望を見出していたのかが、まるで目の前に展示してあるそれが、今、自分が描きかけている絵であるかのように、ビンビン伝わってきて、ちょっと冷静ではいられなくなって、あまりじっくり観ることも出来ずに外へ出てしまった。まさか、ポロックにこんなにもシンクロしてしまうとは思わなかった。
●ポロック的な充溢というのは、いわゆる形式としてのオールオーバーのことではなく、ある「深さ」のなかから、様々なイメージが、変化しながら次々に湧出してくる感覚のことで、その時、たんに図としてのイメージが書き換えられるだけではなく、イメージを生むその母体である地(深さ)そのものが、イメージと同時に常に振動しつつ変化しつづけているという感覚なのだと思う。上に書いたことと矛盾するような言い方になるけど、この感覚については、初期から晩年までまったくかわっていないと感じられる(30年代の作品にこの感覚は既にみられる)。ポロックにとって「絵画」とは、そういう感覚を実現するためのもので、そのために様々なやり方を試したということなのだと思う。だから、47年から50年頃に起こったのは、作品の形式的進化というより強度的な進化にともなう形式の変質なのだ。その時、イメージが具象的なものであるのか、そうでないのか、作品が形式としてモダニズム的であるのか反モダニズム的であるのかということは、二次的な問題に過ぎなかったのだと思う(とはいえ、ポロック自身がこのような二次的な問題によって引き裂かれていたことも事実だと思うけど)。ポロックが「分かる」というのは「この感覚」が分かるということで、それ以外のお喋りは必要ないのかなあとも思う。