●昨日もちょっと書いたけど、ポロックの絵が「目指しているところ」はどの作品でもほとんど変わらないように見える。だから、初期から最盛期、そして晩年と、作品のスタイルや技法は大きく違っているけど、「作品から受ける印象」はどれも似ているように思う。ただ、最盛期の「ポロックの最高到達点」といえる作品では、作品自身が「ポロックのやりたいこと」を越えているので、ちょっと印象が異なる。それは、充溢の密度が極限まで高まることで突き抜けて、「充溢」と「空」がほとんど同じものとなってしまうような状態に至っていると思う。極限まで濃くなったイメージの明滅が、さわやかなひろがりと一致する。空間を埋め尽くす線が、それ自身、空間へと転化する。充溢がそのまま空となり、無数の動きの重なりが静止と同等となり、深さがそのまま平坦さである。オールオーバーとは形式の問題であるより、そのような状態のことを指すのだ。だが、そのような状態にまで至っている作品は、今回のポロック展にはないとぼくは思う(そこに最も近いのが「ナンバー11」と「ナンバー7」だと思うけど)。
だから、今回のポロック展だけで、「ポロックを観た」ことにするのは間違いだと思う。しかし同時に、ポロックの可能性を、ポロックの最高到達点だけに還元するのもまた、違うと思う。ポロックの絵のなかには、「別の最高到達点」へと至る可能性が含まれている。だから、「ポロックを観る」ということのもう一つの意味は、そこから何かしらの刺激を受け取り、それを「わたしの実践」において発展させることだ。その意味では、この展覧会はとても面白かった。ここで、「わたしの実践」は何も絵を描くことに限るものではない。むしろ、全然別なかたちとして現れる方が面白い。ある絵が波及させる刺激が別の絵を生むということはとても重要なことだが、しかし、絵が絵しか生まないとしたら、それはちょっと退屈だ。
●今年がポロック生誕百年だとすると、ポロックは祖母と二つ違いで、ほぼ同世代ということだ。祖母は今年98歳になる。