●お知らせ。発売中の季刊「やまかわうみ」vol.6(2012秋)に、「「関係の絶対性」と「不可避の一本道」をめぐって/倫理と知と自然」が掲載されています。
http://www.webarts.co.jp/book/book_077.htm
吉本隆明の「マチウ書試論」と『最後の親鸞』について書きました。かなり苦労しましたが、書いてみて、吉本隆明について何か書いてほしいと依頼された時には自分が「ここまで書ける」とは思わなかった、というところまでは踏み込めた、と思えました。
●『危険なメソッド』(クローネンバーグ)のレビューを書いていた。複雑な映画なので慎重にゆっくり書く。だいたい三分の二くらい書けた感じ。これを書きながらふっと、二年くらい前に書いてそのままになっている中上健次「岬」論の新たな展開のヒントのようなものが見つかったような気がした。このテキストについては、「岬」についてこんなに詳細に読み込んだテキストは他にないのではないかというくらいの感じはあるのだけど、結論部分というか、落としどころがいまいちつまらなくて、行き着く先が「ここ」ではダメだろうとずっと思っているのだけど、それ以外の有効な方向への展開がずっと見つからないままで放っておかれているのだった。まだ、ひょっとしたらいけるかも…、という感じでしかないのだけど。
●ずいぶん久しぶりに『マルホランド・ドライブ』をDVDで観たのだけど、むちゃくちゃに面白かった。いかにも嘘っぽい、うわべだけの「ゴージャスな表面」に対する独自の感受性(そこに付与される何とも複雑なニュアンスの豊かさ)は、リンチ以外ではみることのできないものだと思う。それが最も顕著にあらわれるのがやはり「顔」のとらえ方だろう。リンチにとって世界は常に顔としてあらわれ、しかしそれが顔である限り必ず胡散臭い偽物であるのだ。顔に対する愛と不信、執着と恐怖。
この映画は、ラストの三、四十分くらいでバタバタッといろんな「謎」の辻褄が合ってゆくのだけど、リンチがすごいのは、辻褄があってしまっても全然まとまった感じにならないところだと思う。納得と言う形の収束が起こらない。それは、全体の構成、個々の場面の構築、演出、フレーミングモンタージュの、どれをとっても、ゆるさを見失わないというか、決め切ってしまわず、常にどこかで隙間が開かれているようにつくられているからなのではないかと思った。絶対にタイトにはしないで、いつも隙間から何かがさらさらと漏れ出てしまっているから、一通りの辻褄が合ったとしても、漏れたものすべてを回収できる気がしない。
●全体を出来る限り厳しく制御しようとしているようにみえるクローネンバーグとは全然ちがうのだなあとも思った。