●レビューを書く都合があって、クローネンバーグの新しい作品(『危険なメソッド』)をサンプル版のDVDで、この十日くらいで三回観た。ユングと、ユングの奥さん、患者で愛人であり後に精神科医になった女性(ザビーナ)、そしてフロイトとの関係を描いている。すべて実在の人物で、事実に基づいた話。これは難しい作品で、うーんとうなってしまう。いや、作品として難しいというよりも、(1)なぜクローネンバーグがこれを作ったのかをどう納得すればいいのか、そして、(2)この作品について何を書けばいいのか、という点で難しい。クローネンバーグだからすごくきっちりしていて、つまりそれぞれのカットが構築的に配置され、辻褄がきちんと合うようになっているので、謎や不可解はないともいえるのだが、その神経質で隙間のない整合性こそが謎であるみたいな感じ。
●ごく普通に、ユング−妻−愛人という三角関係と、ユング−フロイトの友情−対立−決裂の過程みたいな話とちょっと違う。ユングが主人公で映画の中心にいるのだけど、ここでユングはほとんどデクノボーのように扱われている。フロイトとユングが疑似的な父−息子という関係で、ユングとザビーナが父−娘という関係だと言えるのだが、結局ユングは、フロイトにとっての息子である資格はなく、ザビーナにとっての父である資格もない人物で、二人は共に彼の元を去って、ユングは一人ポツンと取り残される、みたいなかんじで終わる。それどころか、ユングははじめからフロイトをほとんど理解しておらず、フロイトの正統な後継者はむしろザビーナであった(ザビーナはまだユングの患者である頃からすでにフロイトを的確に理解している、この辺りのニュアンスは、実際にフロイトを読んでいないと映画だけではなかなか分からないような婉曲的な表現がなされているのだが)、みたいな雰囲気もある。ユングの人物像は、無神経で、自己保身的で、受動的で自らの意思が無いに等しく、しかも金持ちぶりが鼻につく、みたいになっている。つまりこの映画では、弱い人(ダメな人)としてのユングが描かれているといえる。
それだけなら、まあ、そういうことなのか、とも思うのだけど、ここでひっかかるのは、フロイトもザビーナも、そしてクローネンバーグもまたユダヤ系の人だということだ(その点は映画のなかでも強調されている)。この映画はなんと言うか、中心にいるのはユングなのだけど、視点としてはフロイトやザビーナの側にある感じがずっとあって、だから最後は、フロイトやザビーナという登場人物たちだけでなく、映画そのものがユングを置き去りにしてしまう、というような感触がある。
気になるのが、オットーというもう一人の精神科医の存在だ。彼はフロイトに師事しながら、まったく独自の(というか勝手な)信念によって行動し、生きている。オットーは映画の真ん中あたりをすーっと通り過ぎ、ユングをそそのかして、そのまま映画の外に出て行ってしまう。この映画がユングを置き去りにするとすれば、オットーは、ユングを含めたこの映画そのものを置き去りにするように、映画の外に出てゆく。
話それ自体は明快で、整合的すぎて図式的ですらあるのだが、作品内に作用している力の絡み合いがとても複雑で、ややこしい。さらに、とても整合的につくられているので、いくら分析しても「整合性」しか出てこない、みたいな不気味さがある。