●渋谷のショウゲート試写室で『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(大森立嗣)。公開前の映画のことをどの程度書いてよいのかよく分からないけど、途中まではすごく面白かった。ただ、ラストに向かってゆく展開が、ぼくには納得出来ない。網走で兄に会うシーンのあたりから、ぼくにはリアリティが感じられなくなってしまった。それまですごいリアルだったケンタとジュンの関係が急に嘘くさいものに思えてしまった。これは、悪い意味での「文学的想像力の定型」のようなものにはまってしまっているのではないだろうか。何かをぶっ壊した後に見えてくるあたらしい世界とは、まさにケンタとジュンとカヨちゃんの関係そのものであり、彼らの網走までの道行きの全てが、すでにあたらしい世界そのものであるはずで、しかしその関係は決して永続はしないだろうから、映画のラストは、なにかしらの形でその関係の破綻を描かざるを得ないだろう。しかし、それをああいう風な形にしてしまうというのは、つきつめるべきものを放棄して定型に流れたとしか、ぼくには思えない。ケンタとジュンの関係が、あんなものであるはずがない、と、そこまで映画を観てきた観客は思うのではないか。映画がそこまでの時間をかけてつくりあげてきた登場人物たちを、映画自身のラストが裏切ってしまっているように思えた。ラストへの展開がああなってしまうのは、映画をつくっている人たちがケンタやジュンやカヨちゃんたちのような「選べない」人たちではけっしてなく、ただ「選べない」人たちを外から見ている人だからなのではないか。もし、ケンタやジュンやカヨちゃんたち自身がこの映画をつくったとしたら、別のラストになったのではないか、とも思ってしまった。
とはいえ、網走以降の展開をなかったことにすれば、この映画はすばらしい。いや、映画がすばらしいというより、ケンタとジュンとカヨちゃんが、この三人の関係の有り様がすばらしいのだ。途中、ケンタとジュンが、財布だけを取ってカヨちゃんを置き去りにしてしまう場面を観て、この二人ならやりそうだと納得するものの、こんなにはやくカヨちゃんがいなくなってしまうのはもったいないと思い、はやくまたカヨちゃんが出てこないかなあと思う。そしてふたたび出てきたカヨちゃんがまたすばらしいのだった(その後ろ姿の、立ち姿も、服装も、体型も)。つまりは、映画として、作品として、どうこう言うよりも、登場人物たちの存在の方がずっと強いのだ(もし、この登場人物たち自身がこの映画をつくったとしたら…、と考えてしまうくらいに)。ケンタとジュンとカヨちゃんという登場人物たちを目に見えるような形で存在させた、というだけで、この映画は十二分にすばらしいといえる。ラストが納得できないとか、重要な存在なのに兄のキャラクターやエピソードの作り込みが甘い(説明的)とか、いろいろ文句はあるとしても、ぼくは、ケンタとジュンとカヨちゃんが「存在した」ということを忘れることはないと思う。(この映画は六月に公開されるそうです。)
●映画が登場人物を「存在させる」力は、すごく強いのだなあと思う。基本的に、人間は人間に興味を持つものだから(人間の欲望は皆、他者を経由する)、小説でも映画でも、登場人物をもつフィクションは人に対して「強い引き」をもつ。つまり、感情や欲望を惹きつける(あるいは反発させる)強い力をもつ。それに対して近代以降の絵画は、基本的に非人間的で(人物を描いた絵もあるけど、それも往々にして人物であるより「人体」であり、顔であるより「頭部」である)、非人情のメディアで、人は、キャラクターを媒介として絵画との通路をつくるのではない。だから、人が絵画にもつ興味は(人と絵画をつなげる絆は)、どうしてもか弱く、あやういものになる(だから、権威主義的になってしまったりしがちだ)。もともと絵画も、キリストとか、そういう強力なキャラクターによって人との絆をつくっていたが、近代絵画(クールベのリアリズムから抽象表現主義まで)は、そのようなキャラクターを解体した上で、絵画と人がどのように関係することが(どのような関係を構築することが)可能かという問い-実験でもあったと思う(ポップアートは、キャラクターのあられもない復権としてある)。ぼくにとって今もなお「近代絵画」が重要なのは、その非人情的なものの先にある、きわめてあやうい絆(の構築)こそが、重要な問題であるからかもしれないと思う。