●『ニシノユキヒコの恋と冒険』(井口奈己)をDVDで観た。
最初の三十分はすばらしかった。これは傑作なのではないかと鳥肌をたてつつ観ていた。中村ゆりかの家の描写がすばらしい。中村ゆりかが学校から帰ってきて、玄関の鍵を開け、台所で味噌汁を温めて、でっかいおむすびを食べる/食べない場面や、そこへの「犬」の絡ませ方、幽霊となった竹野内豊が出現する場面、そこへの「鳥かご」や「歌」や「風」の絡ませ方、そこに射す光の変化(この場面は特にすばらしい)。また、中村ゆりかが学校をスルーして葬式に向かう場面の「学校」の描写。あるいは、竹野内豊中村ゆりか江ノ電に載っている場面の窓の外に移り変わる風景。あるいは、遠くの海を捉えた鎌倉の風景ショット。映画を観ていて、繰り出される一つ一つのカット、一つ一つの場面に、いちいち打ちのめされる感じというのは、ぼくにとっては九十年代の黒沢清以来のことだった。
でも、途中から(正確には、阿川佐和子が登場するあたりから)作品に対する興味が急速に失われてしまった。それは、作品の問題というより、ぼくの側の問題であると思う。要するに、この映画で描かれるお話、というか、登場する女性たちに対して、興味をもつことが出来なかった、ということ。特に、阿川佐和子と本田翼に対しては、「ほんと、どうでもいいわ」という感情しか持てなかった。感情なり関心なりがひっかかるところがみつけられなかった(だから、「嫌い」とか「不快」とかいうことではない、そのような感情もない)。
(阿川佐和子竹野内豊が喫茶店で映画の話をする場面を観ながら、自分と作品との距離がぐわーんと広がって、作品が遠く離れてゆくのを感じた。その辺りから、必死で紐帯となるものを探したのだがみつからず、どんどん離れてゆくものを手繰り寄せることができなかった。)
おそらく、どんな女性に対しても優しいニシノユキヒコ(竹野内豊)というキャラクターの造形が重要なのだろう。だけどぼくには、幽霊の時にはあんなに魅力的だった竹野内豊が、生きている人として登場する場面では、たんに金持ちでイケメンで優柔不断なボンボンにしか思えず、こちらに対しても「どうでもいいわ」という感じになってしまった。彼と彼女たちの恋愛に対する興味がまったく湧いてこないというか。
繰り返すけど、これはこの作品がつまらないと言っているのではなく、この作品が向かっている方向と、ぼく自身の興味や関心との接点をみつけられなかったということだ。
ぶっちゃけて言ってしまえば、ニシノユキヒコというキャラクターを必要とする、このような人物を創出したいという、「欲望」のあり様が、ぼくにはよく分かっていないということだと思う。登場する女性たちは要するに、最終的に「捨てる」ために、一時期強烈に「好きにさせてくれる」男を必要としているということでいいのだろうか。彼は、女性の欲望を完璧に充足させ、それによって女性は、「自分の欲望の充足」だけでは充足できないことを知り、それで彼は捨てられる、のか。だとすれば彼はあらかじめ幽霊のような存在で、だから幽霊の時にこそ魅力的であるということか。冒頭の三十分では、彼は既に幽霊であり、相手は中学生だから、そこに恋愛が成立する心配はなく、だから彼も相手の欲望を先読みする必要もなく、彼は彼としていられる、ということだろうか。
あるいはこの話を、中学生の中村ゆりかの側から見ると、かつて母の不倫の相手だった竹野内豊が、死んで(本来の姿である?)幽霊になって、家を出てしまった母親を連れ戻してくれた話と読むこともできる。映画では竹野内豊麻生久美子の恋愛の顛末は描かれず、ただ別れの場面のみが冒頭に示される。そして、死んだら会いに来ると麻生久美子と約束したと言って、竹野内豊が中学生となった麻生の娘の中村ゆりかの前に現れる。だが、母はこの家にはいない、と娘は言う。
竹野内豊は、中村ゆりかを自分の葬式の場へ誘い出し、中村ゆりかはそこで、かつて竹野内の恋人の一人であった阿川佐和子によって語られる竹野内豊の女性遍歴を聴かされる。そしてそれは、もしかすると母もそうであったかもしれない(母もその一人であったのだから)、別の母たちの物語でもあると言える。母であったかもしれない別の母たちの話を聞くことで、娘はいままで心のどこかで拒絶していた母を受け入れることが出来(彼女は、母が竹野内と逃げたと思っていたらしく、つまり母と竹野内の関係が強くひっかかっており、それを赦していなかった)、そして母と再会することが出来る。
最後の方の場面で、麻生久美子と(麻生には見えない)幽霊になった竹野内豊との会話を、娘の中村ゆりかが仲介(媒介)する場面がある。実はこの場面は、竹野内豊の媒介によって、母と娘の和解が成立した場面と言えるのかもしれない。
おそらくぼくは、この映画を後者として、つまり竹野内の恋愛ではなく、麻生と中村の母娘の話として、観たのだろう。というか、後者としてならぼくにも腑に落ちる、ということでしかないけど。
●途中から、関心の糸がぷつんと切れてしまったのだけど、それでも停止ボタンを押さずに最後まで観ることが出来たのは、この映画の映画としてのクオリティの高さによるのだと思う。
●最初の三十分はとにかくすばらしく、それだけでぼくにとってはとても貴重な作品だ。