●『罪』(いまおかしんじ)をDVDで(これは『イサク』というタイトルでポレポレ東中野で上映されたもので、ピンク映画としてのタイトルは『獣の交わり 天使とやる』というらしい、ピンク映画はタイトルがいっぱいあって分かりにくい)。なんかもう巨匠の風格というか。一見何もやっていないかのような少ない要素だけで、すごいことなんか何もやってないしやる気もないというような低い体温で、一本の映画を、これ以外には考えられないという形で成立させてしまう。主役の女の子など、普通に考えればちょっとあり得ないくらい下手なのだが、しかし、だからこそこの映画がこのようなものとして成り立っている、という風になっている。下手だけどがんばっているとかそういうのではなく、この女の子がこうであることが、そのまますばらしいことなのだ、ということを撮るために、演出も脚本もこうなっているのだ、という風にさえみえてくるものになっている。
だが実は脚本はいまおかしんじによるものではなく、この脚本が呈示している問題と、映画作家としてのいまおかしんじの有り様とが、合っていないようにも感じられる。しかし、合っていないようで実は合っているのではないか、という感じもあり、でもやはり、ジャストフィットはしてないよなあとも思う。そのちょっとズレた感じが、『かえるのうた』や『おじさん天国』のようなピタッときまった傑作とは違う味わいになっている。
あらゆる登場人物が、それぞれ違った形で植物状態となった人物との関係(それは、過去が強いる現在への関係でもある)を抱えていること、主人公(男)が、非現実的な存在(キリスト)を見ること(その幻影が現実に関与する影響のあり方)、という点では、他のいまおかしんじの作品と共通しているけど、脚本が持つキリスト教的な主題が要請する、葛藤や癒しのような主題はいまおか作品にはそもそも存在しないものだろう。
いまおか的人物は、解消できない過去を抱えつつも、低い閾で現状の多くを受け入れるという低い体温を保つことによって、一種の無表情としてそれ(過去、そして現状)に対処している。それが『たまもの』やこの作品のように、ある種の(それ自体として非常に魅力的ですらある)無力感としてあらわれることもあれば、『かえるのうた』や『おじさん天国』のように、楽天的な調子としてあらわれることもある。あらゆることを低い摩擦で受け入れる低体温は、それ自体として簡単に維持されるものではなく、登場人物たちは、それぞれ孤独に非現実的な幻影との関係をもち、それによって現実的な低体温は維持されているかのようだ。そして幻影は、低い体温の維持に貢献するだけでなく、同時にそこからの逸脱を導くものでもあろう。この二つの力の絶妙な綱引きが、いまおか作品の特別に魅力的な表情を可能にしているようにも思われる。
『罪』では、植物状態となった人物が、現実としての過去の現前であると同時に、非現実的な幻影としても機能している。そしてそれに対抗するもう一つの非現実的な幻影が「信仰(キリスト)」として形象化される。女性主人公が神父-教会を媒介として信仰を得ている(この、市民会館の会議室みたいな味気ない教会の描写がとてもすばらしい)のに対し、男性主人公は直接的にキリストのヴィジョンを見る。キリストのヴィジョンにつき動かされたこの男性の行動が、低い体温で保たれていた状況に波風を立て、他の人物たちに作用してゆく。しかし、この男性の行動が周囲に与える影響は、やはりいまおかしんじ的なものであり、わかりやすい葛藤のような形には発展しない。男性の行動は、女性主人公やごろつきたちに、確かに何かしらの影響を与えたであろう。しかし、それがどのようなものであるのかは、よく分からないまま終わる。もしかしたら、脚本を書いた人はこの点に不満があるかもしれない。しかしぼくにとってはは、この点にこそ作家としてのいまおかしんじへの信頼がある。