●お知らせ。今日発売の「ユリイカ」五月号(特集・ポン・ジュノ)に、「鼻血を垂らす幽霊/『母なる証明』論」を書いています(http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%DD%A5%F3%A1%A6%A5%B8%A5%E5%A5%CE)。これは、『母なる証明』を(二度目に)観た時の興奮状態のなかで書きました(実際には三度観た後で書いた)。「これすげえ」っていう興奮だけでも伝わればと思います。『母なる証明』はおそらく、一度観ただけでは作品の半面しか理解できず、二度、三度と観ることで、最初は思ってもいなかったひろがりと深さと大きさと、そして軽さまで感じられるようになる作品だと思います。昨日、ツタヤに行ったら『母なる証明』のDVDが並んでいたので、まだ観ていない人も、既に観た人も、この機会に是非観ることをお勧めしたいです。
ポン・ジュノ好きの人には、同じく「ユリイカ」のペ・ドゥナ特集に書いた「スウェットの女/ポン・ジュノにおけるペ・ドゥナの存在」も併せて読んでいただけるとうれしいです。
●ぼくは基本的に読書が苦手で、本を読むのはあくまでそこに「面白いこと」が書かれているからで、読書することそのもののよろこびを、多分知らない。脳になにかしらの欠陥があるんじゃないかと思うくらいに、書かれている文字を概念やイメージに変換するのが困難で、かなりの集中を必要とする。気を抜いていると、文字がなかなか文字として見えてこない。居酒屋とかにいると(気を抜いているので)、メニューをみてもその文字が何を意味しているのかなかなか分からない(周りがざわざわしてたりするし)。鰺を見て鰺という言葉は出てきても、鰺という言葉(文字)から鰺のイメージ(意味)がなかなか出てこない。まあそれは、食べ物に対する興味の薄さからくるものでもあるのだが。
だから本(文字)を読むときは必然的に熟読することになり、ざっと流して読むということが難しい(流して読むと、文字の形の変化を目で追っていることになってしまって、意味が入ってこない)。この傾向は年々ひどくなっている気がする。ということは、わかりやすいことがわかりやすく書かれているような文(熟読を必要としない文)には、すぐに飽きてしまって、それを読み続けられないということになる。むしろ、難しく、わかりにくく書かれているような文、複雑な形式を持つ文の方が、まだ集中を持続させやすい。まあこれは、あくまで中味が(あるいは形式が)「面白い」という前提があってのことだけど。
どのみち集中はそんなに続かないので、何度も飽きたり上の空になったりしつつ、改めて、何度も集中し直す。読む姿勢をかえたり、自分の顔を触ってみたり、本の紙の感触を感じてみたり、両手をこすり合わせたり、トイレに立ったり、コーヒーをいれたり、顔をしかめたり、のびをしたり、腿を叩いたり、辺りをきょろきょろ見回したり、ふだんは割とぼんやりしている方だと思うのだが、本を読んでいるときはすごくせわしなくせかせか動いている。そういう、動きにともなう外からの刺激を頼りにして、再び三度、文字を読むことに集中し直す。本を読みながら余白に絵や図を描くことも多いのだが、これも、図によって理解しようというよりも、描くという行為の助けを借りて、意識を文字へと向けさせ、読むための集中を組織し直そうとしているのだと思う。
そこまでして、そこに書かれていることを読み取ろうとさせるものは(意識を文字につなぎ止めているものは)、今読んでいる「それ」が「面白い」ということに伴う興奮だけだろう。例えばほくは、物語上の謎や秘密にほとんど興味がないので、そういうものに引っ張られて、ぐいぐい先へと読み進めるということがない。いや、謎や秘密はやはり気にはなるのだけど、文字を読むことの困難の方がそれに勝ってしまう。だらだら過ごしたり、だらだら散歩したり、だらだら酒を飲み続けたりするのは好きだけど、だらだら本を読み続けることが出来ない(関係ないけど、絵を描いている時---落書きとかじゃなくて、ちゃんとした制作の時---は、本を読んでいる時よりもさらに、ずっと落ち着きなく、ちゃかちゃかしている)。
ぼくが長い小説を読むことを苦手にしているのは、このように、短い集中を何度も繰り返す(やり直す)ようにしてしか本が(というより文字が)読めないからだと思う。
●で、それなりに長い『ピストルズ』を読んだ勢いで、じゃあ、せっかく長い小説を読むモードになったので、この感じでつづけていっちゃっても大丈夫かなと思って『煙の樹』を読み始めたのだが、これがすごい読みにくい。視覚的な情報が短い文に圧縮されていること(文字数に対して、想起するイメージの量が多いこと、それに、読み流せるようなどうでもいい描写がないこと)と、情報の開示の順番が変なこと(その場の状況がなかなかつかめないこと、こうだと思い込んでいたものがしばしばひっくりかえされる)、そして、一つの流れのある長編というよりも、複数の短い場面が、放射状に別の場面と関係していて、それが徐々に複雑になってゆくような構成であること(時間が空間的に分岐してゆく感じ、それに登場人物がすごく多い上に、みんなどこかで関係していることが徐々に分かってくる)、などが、読みにくい主な原因だと思われ、同じ場面を何度も読み返してたり、何度も前に戻ったりしてしまい、残りのページの分厚さが全然減っていかないのだが、逆に、その読みにくさによって(その読みにくさそのものが面白くて)、集中が持続し、読み続けられる感じなのだった。
●例えば、次に引用する場面では、最初、登場人物が車に乗ってある場所に着くまでの車窓からの風景が描写されていると思っていると、いつの間にか描写がその車を追い抜いて、先回り的に目的地の描写になってしまい、さらに、そこに遅れて登場人物が到着する、ということになって、ぼんやり読んでいると、今、誰がどこに着いたのか分からなくなってしまう。「ジミー・ストームだけが…寝室にいて」とか書いてあるのに、その時、ジミー・ストームはスキップやハオたちと一緒に車のなかにいて、この描写の後にヴィラに着く。こういう意図的なカットのつなぎ間違いみたいなところ、厳密に読めば間違っていないのだが、ぼんやり読んでいると前後がわからなくなる書き方がけっこうある。目的地のヴィラの現在の描写ではなく、その現状の説明が、進行している時間の流れのなかにある描写と切れ目無く繋がって、同じ平面に置かれるから、時間が混乱する。
《日没で、雲の下側は赤く燃え上がっていた。車がサイゴンに入り、家が立ち並ぶ通りを過ぎていくと、子供たちは薄暗い光の中で縄跳びをしていて、跳んでいる子供たちの呪文のような歌が切れ切れに聞こえてきた。それから、惨めな店が並ぶアメリカ軍の通りに来て、口のように開いた戸口の前を過ぎていく---どの口からも音楽、声、悪臭が放たれている---そして川を越えて、正式にはギアディン地区に入り、チラン通りを下って、CIAの心理作戦部のヴィラに向かった。誰もそこに長居せず、ジミー・ストームだけが、シューシュー音がするエアコン付きの散らかった寝室にいて、その部屋から出てすぐにある応接室には、籐のテーブルとジャワ綿のクッションソファ、ほとんど空の本棚と、スツールなしの竹のバーがあり、薄い黄色の壁には厩舎にいる馬たちの絵が飾られていた。
黒のシボレーはヴィラで停まった。ハオはアメリカ人たちが荷物を降ろすのを手伝って---ミスター・スキップの衣服に籐のバスケット、それに小型トランク三つ---さよならを言い、汚水路脇のでこぼこ道を懐中電灯を頼りに歩いて帰った。》(P184〜185)
●あと、描写がすごく充実している。いわゆる「濃密な描写」ではないのだが、中味がみっしり詰まっている。なんでもない場面を何度も読み返してしまう。例えば、次のような場面が忘れられない。
《叔父がブレーキを踏んだので、ミンはダッシュボードに手をついて体を支えた---目の前を水牛が横切っていた。反対方向からの貨物バンが水牛とぶつかり、その分厚い皮に跳ね返されたようで、壊れた歩道の真ん中に横倒しになって止まっていた。
水牛は何かを思い出そうとするかのように頭を下げ、しばらく静かに立っていて、角を左右に動かし、紙袋に入った両手が交互に動いているように尻を揺らし、丈の高い草地に入っていった。水牛が雨の幕の中に消えていくと、ハオはシボレーを操り、貨物バンを避けて通った。》(P237)