07/12/20

●リンチ論が大詰め。ここを書くためにいままで積み上げて来たんだ、という感じ。それにしても、書いていて、どうもこの文章は全体的に熱過ぎるようにも思えてきた。「熱い」といえば聞こえはいいけど、ようするに、書く側の思いばかりが強く、クドく出てしまって、「暑苦しい」んじゃないかという恐れがある、ということだ。
リンチ論は、喫茶店に出勤することなく、部屋で書いている。でも、部屋だと、昼間よりも周囲が寝静まった夜中の方が集中出来るので、どうしても、夜中の12時をまわったあたりから書き始めるということになってしまって、せっかく昼型になった生活が、また昼夜逆転してしまいそうだ。健康的な生活をするためには、「出勤」が必要なのだろうか。
金井美恵子『くずれる水』を久々に読み返してみた。最初の「河口」は、すごくシャープでエッヂが立っていて、いいなあ、面白いなあ、と感じたのだけど(おそらく、この「河口」が書けたことで、それ以降の連作が構想されたのではないか)、「水鏡」を経て、つづく「くずれる水」が、思いのほか、装飾過多で鈍重な感じがした。金井美恵子は、こっちの方向に傾くと、かったるくなる傾向があるように思った。官能的な描写の途中に、《男根的な、器官的な欲望ではなく皮膚的な、いや、むしろ、皮膚の裏側がひっくり返されて表面にむき出されているような非器官的欲望、とわたしは考える。いや、考えるのではなく(もちろんのことだ)、欲望の時間を皮膚で生きる。》とかいう、説明的な文が挟まれてしまうのは、興ざめのように思われる。しかしそれ以後、「水入らず」「洪水の前後」とつづくうち、「河口」にあったような、明快な細部がシャープに立ち上がりつつも、その着地点が失われている、という尖った感じから、風俗的な細部のとりとめのなくゆるやかなひろがりと反響によって小説が支えられるような感じに徐々に方向が転換されていって、また盛り返してくる。書きながら手探りしている感じが感じられる。同じ文章が、文脈を微妙にズラされて何度も反復されるのは、前衛的な手法というよりむしろ親切な感じで、ここ、いい場面だからちゃんと読むように、とか、気に入ったところを何度の読むのは楽しいでしょ、と指南されている感じだ。(「書くこと」の倫理性とかいうよりむしろ、文の連なりが意味に着地する瞬間の危うさ、不安定さと戯れているような感じだと思う。)実際に、何度も繰り返される文章を律儀に読んでいると、その都度味わいが変わってくるし、読み落としていた部分を発見して焦ったりもする。
(ただ、今のぼくには、どうしても最初に置かれた「河口」が一番面白く感じられてしまう。「河口」は『くずれる水』以前の『単語集』や『プラトン的恋愛』に収録されているような短編の延長のようでありながら、それらともちょっと違うように思われた。とはいえ、最近、これらの本を読み返してはいないからあやふやな印象なのだけど。「河口」のテンションで長く書くことは困難なのだろうか。というか、これは「短い小説」の書き方で、長い小説の魅力は別にある、ということなのだろうか。)