07/12/21

●リンチ論、第一稿をなんとか書き上げる。60枚とちょっと。冷静に読み返せば、おそらく内容的に繰り返しになってしまっている部分がいくらかあると思うので、推敲してもう少しスリムにしたい。
古井由吉のあたらしい本(『白暗淵(しろわだ)』)の最初の方を少し読んだ。そうしたら、これ、まるで青木淳悟じゃん、と思う文章にぶつかって驚いた。以下に引用する部分は、「ふるさと以外のことは知らない」のなかに書き込まれていても、少しもおかしくないと思う。(というか、以下の文章が書き込まれていたら、あの小説はもう少し「分かりやすい」のではないか。正確に言えば、青木淳悟の小説はもうちょっと「若い」バージョンだけど。)
《分身というものを思った。ここまで来る道の、幾つかの辻のようなところで自身を、後へ置き残すか、立ち去るのを見送るかして、別れて来た。それらの片割れたちと、年が詰まるにつれて、そこかしこで出会う。置いてきたはずのが、先のほうを行く。どれも、長い道の涯に近くまで来て、ようやく一生の運命を悟りかけたふうな背を見せる。
通りすがりの見ず知らずの人間について行ってしまった分身もある。去られたほうはそれを気づいてもいないので哀しみもせず、出会うまでは探しもしない。自身とはじつに時折の分身たちの、往来のようなものかもしれない。分身たちのほうが先に、物を思う境に入るようだ。》(「朝の男」)
●『州崎パラダイス 赤信号』(川島雄三)をDVDで観る。(昨日『くずれる水』を読んだら、何故か観たくなったので借りてきた。河つながり。)「いやー、映画ってホントにいいもんですねえ」とか言いたくなる。この映画をつくった年に、確か川島雄三は一年に4、5本の映画をつくっていたと思う。そういう時代にしかつくることの出来ない映画だ、とか、つい言ってしまいたくもなるけど、それは本当だろうか。この映画を観ながら、ぼくは何度もジャ・ジャンクーの『青の稲妻』のことを思った。川島雄三ジャ・ジャンクーは、作品の形式的なところではまったく似てないけど、紋切り型の(何度も何度も繰り返し語られる)「お話」を、描写の力によって、映画として、新たなものの反復として成立させようとしているところが共通しているように思った。描写というのは「表象」であるよりもむしろ「反復」のことで(そういえば『くずれる水』も、「描写というのは反復のことだ」という小説だと思う)、それだけで凄い何ものかなのだと思う。(ただ、描写の力といっても、『長江哀歌』になると、ちょっと違ってしまっているように思うのだが。)