中上健次『岬』

中上健次『岬』。この小説を前に読んだのは一体いつだっただろうか。もしかすると、読んだ気になっていただけで、実は読んでいなかったのかもしれない。そう感じられるほどに読んでいて新鮮で、こんなに「いい小説」だったのかと意外にさえ思った。簡潔に短く区切られる文は、そのひとつひとつが撥ねるようで、決して重たく描写を重ねているわけではなく、むしろあっさりとした調子で、そして抑制された静けさとともに小説は進行するのだけど、路地を吹き抜ける風やにおい、土の感触、時間とともに変化する光、雨の湿り気、場所の移動による空気の変化、などが、(それらが必ずしも直接的、明示的に描写されるわけではないにも拘らず)刻一刻と変化する(言葉の表情の)細かな振幅によってたちあがり、感知されるのだ。『枯木灘』の自然描写は、描写というより、同一フレーズの畳み掛けるような反復が(呪術的ともいえる)圧倒的なうねりをつくりだすような効果としてあったと思うけど、『岬』では、あくまで抑制された言葉の表情の繊細な揺れや振動によって、路地という空間の「空気」がたちあがってくる。(ただ、この小説で秋幸は不自然な距離感で「彼」とされていて、この、やや浮いた感じで違和感を生じさせる「彼」という言葉が何度も反復されることが、軽い呪術的反復の効果となっているかもしれない。)複雑で錯綜する血縁関係によって生じる、人物同士の関係が含む微妙なニュアンス(屈折)もまた、(路地の「空気」と同様に)決して饒舌とは言えない、決して大げさになることのない、簡潔なセリフや動作によって極めて繊細に拾われ、捉えられている。こういう小説を読むと、こういう文を書ける人こそが「小説家」であり、理屈抜きに「才能」というものが存在するのだと思い知らされる。(『奇蹟』や『千年の愉楽』のような、あからさまに高度な超絶技巧による文章よりも、『岬』の、一見なんということのないような言葉の連なりに、こんなにも表現力をもたせられるのか、というような文章に、より驚きを感じる。)これは、折にふれて何度も読み返したくなる小説だと感じた。
《夢をみていたはずだった。覚えていようと夢のなかで思った。だがめざめると、忘れていた。文昭が、彼をみてわらった。日が当たっていた。なにかが変わってしまったように思っていたのに、いつもの朝と変わりはない。「秋幸、はよせんかい」と母が言った。死んだものに、この朝がないというのが不思議だった。干物を焼いたにおいがしていた。兄に、あの時、刺されて死んでいたら、自分もこの朝を見ることも、感じることもない。》
これは、秋幸の同僚の人夫が、その妻と日頃から折り合いの悪かった妻の兄を刺し殺してしまい、その殺された男の葬儀の次の朝のシーンなのだが、こういう文章があくまでさらっと書いてあるところが、この小説の凄いところだと思う。
●ただ、ぼくにはどうしても、小説の象徴的表現というのがよく分からない。たんじゅんに、この小説にラストの取って付けたような近親相姦のシーンは本当に必要なのだろうか。同じ父を持つ妹と性行為をすることが、あまりに複雑で濃い血縁関係のなかで生きることに対する、憎しみと愛おしさを同時に、集約的に表現している、というのは分からないでもないが、でもそれは、そのような分かりやすい(わざとらしい)ラストがなくても、この小説全体で、既に十分に語られていると思うのだが。