●『呪怨・白い老女』(三宅隆太)をDVDで。これはぼくには面白くなかった。何故、中途半端に(ワイドショーレベルの、紋切り型の)「複雑な家庭」なんかを描こうとするのか(そこの部分のドラマをやろうとするならもっとちゃんとやらなければ、いかにもやばそうな奴が、そらみろやっぱり犯罪を犯した、というドグマを強化するだけの話にしかならないと思う)、なんで面白くもない芝居を延々と見せるのか(紋切り型の家族描写の他にも、例えば、二人の刑事が屋上で呪いのテープの顛末を語るところとか)、ぜんぜんわからなかった。ホラー的描写はさすがに洗練されているのかもしれないけど、それ以外の(普通の)部分が面白くなかった(宮川一郎太だけは良かった)。ラストが「呪怨」のルールを破っているんだけど、あれだけのことを散々やっておいて、最後だけとってつけたように「いい話」にするのもちょっと嫌な感じだった。
呪怨・黒い少女』(安里麻里)。こっちはけっこう好き。この映画の良さの多くは、主演の女の子の非常に多彩な表情と表現力に依っていると思った。こんなに若い(多分、十二、三歳くらい?)女優から、よくもこんなに複雑な表情を引き出せたものだと思っていて、クレジットにあった「松本花奈」という名前になんとなく見覚えがある気がして、調べてみたら『サイドカーに犬』に出ていた人だったことが分かって、納得した。『サイドカーに犬』(根岸吉太郎)は素晴らしかった。映画が素晴らしかったというより、松本花奈という人が素晴らしかったのだった。2007年12月29日の偽日記より引用。《こういう女の子をみつけてきて、ここまできちんと演技させ、それを丁寧に撮っているというだけで、とても貴重な映画だと思う。それに比べれば、大人のキャラクターが、悪くはなくても、いまひとつありきたりなように思えた。(ほとんと、松本花奈っていう女の子がすべて、みたいな映画だと思う。とはいえ、相米慎二みたいには、この女の子を前面に出してはいないのだが、そのことで返って、この女の子の内省的な感じが拾えている。)最後の方で、それまでずっと抑制的だった女の子が、父親の古田新太のお腹に頭突きするところは泣けた。ああ、この(頭突き=感情を弾力をもって優しく吸収する分厚い肉をもった)丸い「お腹」があるから古田新太なのか、と納得した。》
●「岬」論のつづき。「岬」の書き出しの部分にはっきりあらわれている、語り手と語られる対象(秋幸)との関係の歪みと混乱について。この混乱こそが、秋幸という人物の存在を基底的なレベルで不安定にし、世界の双数的分裂を強いている。「岬」では秋幸は語り手から一貫して「彼」と呼ばれつづけているのだが、これはそのまま「わたし」と言い換えても成り立つ。「岬」では、秋幸は「彼と呼ばれるわたし」であり、そこに幻のもうひとりの気配が生じる。「岬」の直前に書かれた「浄徳寺ツアー」でも、同様に主人公は「彼」と呼ばれ、それはそのまま「わたし」という一人称へと変換可能だ。しかし、「浄徳寺ツアー」には語り手と主人公との間のねじれは感じられず、語り手は終始、安定的な位置にいて主人公との距離感を操作している。だが、「岬」では語り手と語られる人物の関係に冒頭から歪みが強く感じられる。この違い(歪みの原因)を分析する。ちょっとややこしい話。