07/10/09

日比谷シャンテシネで、ジャ・ジャンクー『長江哀歌』。ジャ・ジャンクーは理屈抜きですごく好きなのだが、(観ることの出来た)五本目ではじめて、イマイチかなあ、と思った。いつもは、その圧倒的な風景と音とに触れると、それだけで興奮するのだが、この映画の、いかにも「風景を見せてます」というショットには、ちょっと引いてしまう感じがある。「三峡」という場所は、ジャ・ジャンクーにとって最後まで「題材」であることに留まっているように思うのだ。そんなことを言えば、『世界』の世界公園だって、あまりにあからさまに狙った「題材」なのだが、『世界』では、その狙いを超えてジャ・ジャンクーの作品になっているというところまで押し返していた。(『世界』では、冒頭の鈴の音から既に、ジャ・ジャンクーの映画なのだった。)ジャ・ジャンクーの映画の凄さの何割かは、「現代中国」という題材によるのだと思う。それは、実家の庭先を掘ったら石油が出て来たみたいなもので、それはズルいよとも思うのだが、しかしそれでも、現代中国を撮れば誰でもがジャ・ジャンクーになれるわけではなく、現代中国という題材の利点を最大限に生かしつつも、ジャ・ジャンクーの映画にしかありえない瞬間をつくりあげていた。しかし、『長江哀歌』では、三峡という場所がそれ自体として凄過ぎるので、映画作家としてのジャ・ジャンクーがそれに負けてしまっているようにみえる。もっと言えば、中途半端にあるドラマ的な部分が必要なくて、ひたすら三峡という場所(撮影対象)を捉えることに徹した方がずっと良かったのではないか、と思えてしまうのだ。(もっとじっくり腰を据えてドキュメンタリーとして撮るべきではないか、とか。)例えば、このショットは、この風景を見せたかったから、ここに人物を配置して、こういう風にカメラを動かしたんだろうなあ、という意図が見え過ぎて、冷めてしまうところが多過ぎる。(つまり、映画作品としての必然性があっての配置や動きではなく、ただ風景を見せるためだけのそれに見えてしまう。)見せたい(撮影しておきたい)風景があまりに多過ぎて、それを出来るだけ(手際良く)見せようとすることが、逆に、ジャ・ジャンクーの映画にいつもある、圧倒的な風景と音の現前を殺してしまっているような印象さえ受けた。(編集のリズムなんかも、いつもと違って冴えがないように感じた。)
ジャ・ジャンクーの映画の面白さは、現代中国の圧倒的に大きな風景と、そのなかで生きる一人一人の人物のささやかな「情」のようなものとの残酷なまでの乖離が示されているところにあると思う。ここで、圧倒的に大きな風景とは、一人一人の生活や感情を置き去りにし、押し流してて進んで行く、世界の大きな流れのことでもある。人物は風景に対してあまりに卑小なのだが、その卑小な人物の情をしっかりと繊細に描き出すことが、人物と風景との「乖離」を強く印象づけ、それが作品の力ともなる。しかしこの映画ではその情の部分が、風景を見せるために(その都合で)仕立てられたかのようなわざとらしさ、弱さがあるため、風景の現前の力も弱くなってしまっているのではないだろうか。ジャ・ジャンクーはある意味で、すれっからしといってもよいほどに巧みに映画を組み立てるのだが、いままでの作品では、その手際良さよりも、圧倒的な風景の力と情の演出の細やかさの方が強く出ていたのだけど、この映画では、いかにもな「手際の良さ」の方が先に見えてしまうのだ。いかにも、他所からやってきた映画監督が、「現代中国の問題」を示すために、三峡という題材を使って、手際良く仕立て上げた啓蒙的映画にみえてしまう、といえば言い過ぎだろうか。さすがに、後半は盛り返して、チャオ・タオが出て来る一連のシーンなどでは、「ああ、ジャ・ジャンクーの映画だ」と思えるシーンもすいぶんあるのだけど(チャオ・タオがペットポトルで水を飲んだり、扇風機にあたったりするだけで「ジャ・ジャンクーの映画」になるのだから凄い)、全体としては、作品として弱いという印象なのだ。個別的に面白いところは沢山あっても、それがちゃんと絡み合っていないというか、それらが絡み合う必然性がみえない。この映画を観た多くの人はおそらく『ヴァンダの部屋』を思い出すと思うのだが、それに比べると、あまりに手際良く仕立て上げられた感じがし過ぎてしまうところが弱いのだと思う。