青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

テアトル新宿で、青山真治エリ・エリ・レマ・サバクタニ』。驚く程、面白くなかった、と書くと、攻撃的、批判的に聴こえてしまうのでいそいで付け加えるのだが、これは作品や青山監督への批判ではなく、この映画を面白がることの出来ない自分に対する戸惑いを素朴に(そして内向的に)表現したものだ。見ている間じゅう、なぜ自分はこの映画を面白がれないのか、もしかすると昨晩あまり寝ていないとか、疲労がたまっているとか、そういう体調の問題で、日を改めて見に来れば、また違った見方が出来るのではないか、とも考えた。ぼくはこの映画を観ていて、何のひっかかりも感じることが出来なくて、ただ目の前にさらさらと映像が流れてゆき、爆音が鳴っているのを、すごく引いた所から、醒めた目で眺めている、という感じだった。カッコいいショットとか、いっぱいあって、特にラストの雪が降って来るところなど、普通に考えれば鳥肌もののショットなはずなのに、この映画に対して、作品として入り込めるところが全くみつらなかったので、カッコいいショットが、それこそ括弧つきの「カッコいいショット」としかみえなかった。ただ一つ分かったのは、『ユリイカ』、『名前のない森』、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』などをみてきて、青山真治監督は基本的に「メルヘン」をつくる映画作家で、そしてぼくは、メルヘンにはあまり反応出来ない人間である、ということだった。
メルヘンという言い方だけだと乱暴なので、もう少し書いてみる。この映画の冒頭から、浅野忠信が掃除機のホースのようなものを振り回して音を出す動作が何度か繰り替えされる。そして、浅野氏は、複数のホースを回転するモーターのようなものに取り付けて、音を出す装置をつくり出す。ぼくはこのシーンを観て(音を聞いて)一瞬だけ感動して、次の瞬間に疑問を感じた。この装置で、本当にこんな音が鳴るのだろうか、と。この装置は、たんに映画の都合上でこんないい音が鳴ることになっているだけで、本当はこんな音は(実際には)鳴っていないのではないか。これはぼくの勝手な、実証を書いた疑問に過ぎず、本当にこの装置で、映画に示されるような音が鳴るのかも知れないのだけど、この疑問が生じた瞬間に、この映画のあらゆるものたちが疑わしく思えてしまったのだった。例えばゴダールなら、実際にスタジオで音楽をつくっているミュージシャンを撮影(録音)して、その素材を用いて(加工して)、自分の映像=音響(作品)をつくる。出来上がった作品はまぎれもなくゴダールのもの以外の何ものでもないのだが、その音の素材は、実際にその映像に映っているミュージシャンがつくった音であり、ミュージシャンが音をつくっているところの映像が撮影された時につくられたものなのだ。つまり、そこで使用されている「映像と音」と「現実」との関係(出自)が最低限保証されている。このことが、ゴダールの映画を(昨日の日記とも関係するのだが)フラットではないものにしていると思う。しかし『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』では、そこに映っている人(浅野忠信中原昌也)が、採集したり、採集した音を用いてつくったりしている音=作品は、実際には後から別の人が作った、映画の「お話」に都合のいいように「均された」音でしかないのじゃないか。浅野忠信がつくった装置が素晴らしい音を鳴らして、その音が鳴ったまま、次の浅野忠信中原昌也が自転車で走っているロングショットが示された瞬間、「ノイズ」とか言ったって結局は普通の効果音じゃん、と、思ってしまったのだった。(浅野忠信中原昌也は、あの廃屋で実際に音楽をつくっているわけではなく、そのフリをしているだけだ。それはフィクションなんだから当然なのだけど、それがぼくには、堪え難く嘘くさく思えてしまった。)つまりぼくが「メルヘン」というのは、あらかじめその作品を制御する世界観とでも言うべきものがあり、あらゆる細部がその世界観に奉仕するためにつくられているようなもののことだ。だから、その世界観を共有(共感)できなければ、その作品の内部には入ってゆけず、引いたところから冷めた目で眺めるしかなくなる。
この映画を観る前の晩、DVDでジャ・ジャンクーの『青の稲妻』を観ていたのだけど、この映画の外側(現実の中国という環境)から雪崩れ込んで来るノイズの圧倒的な生々しさと、しかし、そのようなノイズによって作品が解体されてしまうのではなく、その取りつくシマも無い圧倒的なノイズの洪水のなかで、例えば、自分の病気を知った男の子が、女の子と別れる自転車のシーンのような素晴らしい場面を作り上げてしまう力技に感動していたので、そのこともまた、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の作品世界をどうしてもヌルいと感じてしまった原因の一つだったのかも知れない。
これは「批判」としてはおそらく的を外している。青山監督は「現実(世界のフラットでなさ)」とかには多分全く興味がなくて(むしろそれを積極的に排除して)、それとは別の「夢の世界」(つまりメルヘン)を映画として構築しようとしているのだと思う。そして、たんにぼくはその夢の世界には同調できないという、ただそれだけのことだと思う。