世界は決してフラットではない

●「新潮」(3月号)の連載のはじめの方で保坂和志が、世界は決してフラットではないということを書いている。《絵の具の色も布の染色に使う色も焼き物の色も、すべてそれぞれに、試行錯誤を経て自然から採取されてきたものであって、赤を作り出せたからといって同じ手間と材料で青が作り出せるわけではない。》これはとても重要なことだと思う。保坂氏は続けて、自身がいつも使っている(トンボ社の)四色ボールペンを例に出して、その緑色のインクだけが、半日も書かずにいるとすぐに出なくなってしまう、ということを挙げている。つまり我々は普段、色のついたインクなどは、たんに色が違うだけで、どれも同じようなもの(同じような性質を持ち、同じような過程によって生産されるもの)だと考えがちだが、「色が違う」ということはつまり物質としての「組成が違う」ということであり、性質が違うということであり、それは「自然からの出自が違う」ということなのだ。(絵を描く人は、絵の具の値段が、色によって大きく異なるという事実によって、それをいつも実感しているはずなのだが。)緑のインク(絵の具)と赤のインク(絵の具)とは、たんに補色としての視覚的な効果の違いだけがあるのではなく、物質としての組成や性質や出自の違いがある。それは、緑色と赤い色とを、言葉として「緑色」「赤色」として扱うことは出来ず、あるいは、色を、x色、y色として形式的に扱う(例えば、x色の補色を「−x色」とする)ことも出来ない、ということを意味する。緑が緑であることは、たんに視覚的な効果としてそうなだけではなく、それが「緑」として見える世界=自然との繋がり(対応性)があり、必然性があり、つまりそれを「恣意的な差異の体系」の一項として扱うことはできない。つまり「緑」色の絵の具は、「赤」色や「青」色との差異(「赤」ではなく、「青」でもない)によって「緑」色なのではなく、世界(自然)との対応関係において、常に既に「緑」であり、そうだからこそ「緑」色に見え、「緑」色固有の感覚を生むのだ。論理的、理知的に(つまり「言葉」によって、体系的、形式的に)ものを考えることの出来る人ほど、この部分でつまずく。セザンヌの絵で、赤褐色のタッチとくすんだ緑のタッチとか隣り合って置かれる時、そこには性質の異なるものの亀裂を含んだ併置(つまり決してフラットではない、凹凸があり、濃度の差があり、穴がある世界)があるのであって、(例えばスーラの絵のように)補色による視覚的効果だけがあるのではない。(さらにセザンヌのタッチは、スーラのタッチと根本的に異なり、それが置かれた「時間」の違いがはっきりと刻印されている。)ただ目で見ることしか出来ない絵画が、たんなる視覚的効果を越えることが出来るとしたら、このような亀裂を組織し得るからだろう。