●見たくないものを無理やり見せられるような悪夢で夜中の中途半端な時間に目が覚めてしまって、それから眠れなくなったので、かなり前に買ったけどまだ観ていなかった『蜂の旅人』(アンゲロプロス)のDVDを観はじめたら、自分でもびっくりするくらい引き込まれた。
『1936年の日々』以降のアンゲロプロスの映画で何故かこれだけ今まで観ていなかったのだが、五十歳くらいの時にこんな映画をつくっていたのか、と思った。お話としては、初老のおっさんの(多分に自虐のはいった)ナルシスティックな妄想話とも言えて、妄想話としてきれいに閉じられすぎてる感もあるのだが、それによって、アンゲロプロスの映画としては稀有な、小ささ、俗っぽさ、直接的な感じ、が、実現されているように感じた。この映画では、歴史は完全に記憶に還元されて閉じていて、滅びゆく記憶と共に滅んでゆく人たち以外への通路が見出せない。とはいえ、これを作った時のアンゲロプロスはまだ五十歳で、主役を演じるマストロヤンニも五十五歳で、まだまだ生臭さの残る年齢であるはずで、だからこの話は内省的な自画像ではなく、上の世代に向けた残酷な視線のような感じだろう。
この作品と、その次の『霧の中の風景』はいわばメルヘンだと言えると思うのだけど、それでも『霧の…』では、子供たちという形象に賭けられた何かがあるのだが、この映画にはただひたすら滅びる方向に進んでゆく男がいるだけだ。そして、この男の傍らに、この男と決して交わることのない「若さ」そのものであるような若い女性を配置する。この映画は、その配置だけで出来ているとも言えて、男は、自分とは根本的に相容れない「若さ」の体現者に対して、惹かれるでも、執着するでも、翻弄されるでもなく、ただ、ペースを乱され、戸惑いと苛立ちを増幅させてゆく。
実写映画でそれを撮る時、カメラの前には実際に五十五歳の男と十七歳の女がいる。つまり現実としてその二人が配置される。そして、その実際に生きている人間によってなされる配置が、この映画のすべてと言えるんじゃないだろうか。歴史が記憶としてしかあり得ない時代があり、そこに記憶そのものとして滅びてゆく男と、そもそもその記憶を持たない女がいて…、みたいなメルヘン話は方便にすぎず、老いや死を意識せざるを得ない年齢の堅物のおっさんと、そんな空気にあまり頓着しない若い女がいて、その二人が一緒に旅をするとしたら、そこに流れる気まずい空気やその関係の変化ってどんな感じ?、ということをどう生々しく捉えられるか、ということがやりたかったのではないだろうか。
だからこの映画では、映画として、「いやー、今までもやりたかったんだけど、作品のなかに上手くはまらなくてなかなか出来なかったんだよねー」みたいなことが、割と自由にいろいろやられている感じがする。それによって、他のアンゲロプロスの映画とはちょっと違った感じの躍動感があるように思う。
DVDについている資料にも書かれているけど、アンゲロプロスの映画って、動きが止まることの躍動感というのがあるんだよな、ということがすごくよく感じられる作品でもあると思う。
●11月5日の『フィロソフィア・ヤポ二カ』読書会についての、清水高志さんによる資料が近藤光博さんのブログからダウンロードできます。中沢新一に興味がない人でも(ぼくもつい最近まではあまり興味なかったのだけど)、この資料を読んでみれば『フィロソフィア・ヤポ二カ』を読みたくなるんじゃないだろうかと思う。
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2011/11/post-4432.html