●目白の日本女子大学で『フィロソフィア・ヤポ二カ』研究会。
こういう言い方はかえって失礼かもしれないのだが、学者のディシプリンすげえ、というのが素朴な感想だった。参照項の広さや深さは勿論だが、それを頭のなかで検索して口にまで出してくる速さと的確さと自在さ…。
●ぼくは、フォーマリスムというのは、何かを判断するための情報が圧倒的に不足しているところで(つまり知識も教養も圧倒的に不足しているところで)、それでも何かを判断するための技術だと思っていて、そのような意味で自分をフォーマリストだと思っているのだが、でもまあ、それだけだとたんに勉強不足や能力不足の言い訳にしかならない。
例えば、カスタネダの本があったとして、その価値(その面白さ、密度、リアリティ)は、そこに書かれたことが嘘か本当かという外的な事実とは別に判断可能であるはずで、ドンファンが実在すれば○、実在しないからインチキというわけではないはず。ドンファンが実在していたとしてもつまらないものはつまらないのだし、実在していなくてすべて嘘でも、面白ければ面白い(事実か虚構かということとは別の真実性がある)。外的な参照関係とは別に、それ自身としての「正しさ(真実性)」というものをどう判断するのかということは、芸術の大きな問題である。ここで判断とは、既にある作品が良いか悪いか判定するということだけでなく、今、作られつつある作品において、次に置かれるべき色が何故、青ではなく赤であるのか、という判断でもある。次に置かれる色が赤である根拠として、モチーフになっている花の色が赤であるからという外的参照は、作品においては(十全な)根拠にならない。ここにあるべき判断の「正しさ」とは何だろうか。
●『フィロソフィア・ヤポ二カ』という本に西田幾多郎という名前で出てくる人物が、どの程度、実際に西田が書き残したテキストに対して忠実であるのかということが問題ではないと言っているのではない。それは勿論、重要な問題である。この世界には、互いに参照可能な様々なものたちの折り重なりとしての密度と深度があり、そのようなものたちの相互作用が働いていて、互いに参照可能性に開かれている。そうである限り、ここで「西田がこう言っている」と言われていることが本当のことであるのか(どの程度の精度で本当か)が問われることは当然であろうし、それを外してはならないだろう。
しかしそれだけでなく、『フィロソフィア・ヤポ二カ』という一冊の本、言葉の連なりによってつくられた構築物、あるいは一つのシステム、運動、作品、のなかで、西田と言われている登場人物のする「この振る舞い」はこれで正しい(適当である)のだろうか、という別の問いもあるはず。それは、実際の(外的参照項としての)西田との関係とは別に、この本における思考の形態、この本自身の持つ密度と深さのあり様、この本としての形式や構造、この本がもっている運動や展開、によって、そのなかで問われる必要がある。前述したフォーマリスムというのは、それを問う技術だということ。そのような問いによってはじめて、この本が「何を云おうとしているのか」ということが言えるのだと思う。
●前者の検証に関してぼくはまったく能力がないので、それについてはひたすら「なるほど」と教えていただく感じで、後者のみに集中した。
●懇親会も含めて、刺激的な話がたくさん聞けて、すごく面白かったけどすごく疲れもした。部屋に戻るまで疲れはあまり意識していなかったが、部屋に入ったとたんにどっときて、水を飲もうとしてコップを落としたり、何もないところで足がもつれたりして、体力のなさを痛感した。
●研究会のUST録画。
http://www.ustream.tv/channel/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2-%E3%83%A4%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%AB-%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E4%BC%9A