国立新美術館で「モダン・アート、アメリカン」展、東京都現代美術館MOTコレクション展「布に何が起こったか」を観た。
●「モダン・アート、アメリカン」展は、期待していたほどは良い展示ではなかった。ただ、一つ強く思ったのは、アメリカにおけるキュビズムの受容の正確さと高度さということ。アメリカの画家たちは同時代でキュビズムがちゃんと分かっていた、と。しかし、正確で高度であればあるほど、それが結局「模倣」に過ぎないという感覚も強く出てくることになる。だがここで重要なのは、キュビズムの正確で高度な受容を通じて、絵画の形式性に対する高い意識とリテラシーが形成されていって、それが(キュビズムとは異なる形式性をもつ)アメリカ型フォーマリスム絵画の開花へと繋がっていったのだろうということ。まさに、キュビズムが(弁証法的な意味で)否定的な媒介となってアメリカ型フォーマリスムが生まれたのだ、ということがすごく感じられる展示だった。やっぱり勉強は大事なんだよ、と。
●今まであまり興味なかったけど、ジョージア・オキーフの風景画がとてもよかった。薄塗りの色彩によってひろがる空間の感覚は、後のカラーフィールド系のアメリカ型絵画の感性的な原型となっているようにも見えた。
●ミルトン・エイブリーはすごく好きな画家だ。弱くて、ささやかで、マイナーであることの豊かさをこんなに感じさせてしれる画家はそうはいない。そのような意味で、(近代絵画のある種のマッチョさに対するカウンターとしての)「現代絵画」の一つの原型でもあるように思う。とはいえ、現代絵画は、弱さ、ささやかさ、マイナーさの魅力という場に、あまりにもずうずうしく居直っているようにも感じられるけど。
国吉康雄の絵もまた、マイナーであることの豊かさがみっしりつまっているのだが、たんにそれだけでなく、この画家の絵にある、地のなかにあらかじめ多視点が埋め込まれているかのような不思議な空間性には、形式的な意味でもとても興味がある。
●面白いのは、MOTコレクション展では、ロスコ、ルイス、ステラ、ノーランドなどのカラーフィールド系のアメリカ型絵画が多く展示されていて、「モダン…」展では、ポロック、スティル、ガストン、ディーベンコーンなど、ペイント系のアメリカ型絵画が多く展示されていること(ガストンとディーベンコーンが思いの外良かった)。まあ、スティルなどはカラーフィールド系でもありペイント系でもあるし、この二つの流れはまったく異なるわけではないけど、形式性というより以前の、画家の資質の根本的なところ(表面的なマチエールの違い以上に、作品を生み出してゆく「過程」の組み立て方という点で)で何かが違う感じで、それも面白い。
●フランケンサーラー好きとしては、あんな中途半端なフランケンサーラーを一点だけ見せられるというのは、お預けをくらったみたいで、中途半端に掻き立てられた高ぶるこの気持ちを一体どうすればよいのかという感じで、どこかで本格的なフランケンサーラー展をやってくれないかと強く思うのだった。
MOTコレクション展はすごく良い展示だった。MOTはいつも、常設展の方が充実している。ごく単純に、カラーフィールド絵画が展示されている部屋の美しさといったら…、という次元で良い。何故か三階に(「布に何が起こったか」の展示は一階)別枠でこっそりブライス・マーデンが置かれていたりするのも「おー、こんなところに」という感じ。これも別枠なんだと思うけど、ピピロッティ・リストの、上下とか重力とかいう感覚を攪乱するような映像インスタレーションの作品もとても面白かった。
●例えば、嶋本昭三の作品における支持体の破れと、フォンタナの作品の破れやカステッラー二の支持体の凹凸では、意味が違う。あるいは、白髪一雄の粗い筆触と、デ・クーニングの粗い筆触とでは、意味が違う。あるいは、白髪一雄の木の彫刻に塗られた赤と、カロの金属の彫刻に塗られた緑とでは、その「彩色」の意味が違う。それらは似て非なるもので、表面上(現象上)は似ているとしても、作品におけるその機能がまったく異なる。だから、これらを表面上の類似において並列するのは、通常は安易だと思う。
ただ、実際に並べてみると、案外近いのかもと思わされるようなところも見えてくるから面白い。実際、村上三郎の絵画は、おそらく意識はまったく違うはずなのにアメリカ型絵画に近い「質」を獲得している(行為の類似が、質の類似へ導くのだろう)。あるいは、フォンタナの作品は、切り込みによって、絵画を規定している「表面」を「裏」と通底さてしまうことで、空間概念(場)そのものを異質なものに変えてしまういわばトポロジカルな操作なのだと思うが、とはいえそこから、穴をあけるという行為そのものの楽しさとか、その穴をどう保存するのかという美的な効果の方へと退廃してゆく気配も濃厚で、その点で嶋本昭三の作品とも通底してしまう気配がある。あるいは、カロの美しく洗練された彩色彫刻における彩色された鉄という効果は、粗く塗られた白髪一雄の木材と、物の表面を色で覆う効果として、どこか響き合うものも現れてしまう。
それ自身で宙に浮かんでいるかのような高い形式性と抽象性を実現しているアメリカ型の絵画と、幼稚でロマンチックな次元での身体性の発露としかぼくには思えない「具体」の作品とは、真逆でありまったく違うものであるはずなのに、作品が「物」という次元で(物という媒体によって)成立している限り、現象上の類似がどこかで何かを響かせてしまう瞬間がある。似て非なる、というのは、違うはずなのに似ちゃってるということでもあり、しかしこの「似ちゃってる」はあくまで非本質的で表面的なことであるはずなのに、その表面の類似に導かれて(巻き込まれて、引き込まれて)、深いところにある何かまでも共に震えてしまうかのような瞬間が(いつもとは言えないにしても)稀にある、ということも否定できない。
(勿論、表面的な類似をただ次々と並べて見てゆくだけでは、単語を読んで意味や形式を読まないことになってしまうのだが…。とはいえ、表面的な類似は一方で、馬鹿に出来ない深さにまで響くことがあるということ。)
そういえば、このことは、最初の方で書いた、アメリカの画家たちがキュビズムを「正しく」受容することで絵画の形式性への高い意識をもつようになったということと、ちょうど真逆の(裏表の)ことを言っていることになる。
●ぼくはカロの彫刻が好きで、あー、いいなあと思って観ていたら、カップルの客の男性の方が作品の前に来るなり女性に向かって「これ、絶対恐竜だよ」と言っているのが聞こえて、「えーっ」と思った。いや、たんに彼女のウケを狙って「面白いこと(意図的に突飛なこと)」を言っただけかもしれないけど…。確かに角度によっては恐竜に見えなくもないのだが(それも「言われてみれば」ということだけど)、この作品を一目見て「恐竜」へとイメージを収束、固定してしまうその即断即決的な断定力にショックを受けつつ、そうか、抽象絵画が分からないという人はきっと、主語的規定をすごく強い力で受けている人なんじゃないだろうかと思ったのだった。
●美術館から戻ってきて、最寄駅の駅前にある喫茶店に入って『フィロソフィア・ヤポ二カ』の第10章を読んだ。これはすばらしい。ここに辿り着くために今までがあったのかと感動した。この感動を保存するために、今日はこれ以上つづきは読まないことにした。