●昨日のことだが、ギャラリーαМで西原功織・展を観て、これは高度な形式主義ではないか、と感じた。
ここで形式とは、絵画制作のメソッドとスキルのこと。つまり、ある一般的な絵画の形式(メソッド・スキル)があれば、どのような異質なイメージ、どのような異なる内容であっても、その共有された形式に還元できる(つまり「[絵の具とキャンバスによって]絵に描ける」)。ここで示されているのは、そのような意味での「絵画の形式」なのではないか、と。
どのようなイメージも、絵画の形式と交換可能だとする。日常の光景でも、様々なメディア(ここでは「映画」)から入ってきたイメージでも、抽象絵画でも……。つまりここで、絵画のメソッドとスキルが、イメージに対して、貨幣のような一般的な交換形式となっている。勿論、イメージの性質によって、比較的容易に交換可能なもの(つまり、安価なもの)もあれば、比較的困難なもの(高価なもの)もある、という違いはあるとしても、一般的な形式の前ではそれ(イメージの個別性)は、量的な問題となる。
(百円で、ポテトチップスも、炭酸水も、ヤマト糊も買えるが、ポテトチップスで百円は買えない。ここで、一般的形式=百円があれば、百円で買える=描けるものは何でも買える=描けるし、同列に並べられることになる。)
非常に高い技量をもつ(つまり形式的に「お金持ち」であり)、勤勉でもある画家は、日々、異質なイメージたちを、描くことによって一般的な形式と交換しつづける。展示されている作品は、画家の日々の労働=交換の記録であり、一般的な形式へと交換されることで並立可能となる(出自の異なる)様々なイメージたちの一覧表のようなものだと思われる。ストイックな生活=労働の形を示す会計報告書のようなもの。
それらが示すのは、個々のイメージ(内容)の多様さや差異、不揃いな断片性ではなく、イメージを(再)編成する「形式」の一般性や統一性であり、その適応範囲の広さ、汎用性、あるいは揺るぎなさではないかと思う。つまり、他者やノイズによって揺らぐことのない「一般的形式=画家の意思の形」のブレのない一貫性こそが示されているように思う。画家の労働(制作)は、形式の汎用性の証明のためになされる反復の身振りのようにもみえる。それは、そのような労働=行為によって、現代のテクノロジー的な環境における、より一般的なイメージの一般形式(例えば簡単にコピペ可能なデジタル画像とか)の専制に抗するということでもあろう。
作品が示す、この、強い一貫性に対して、畏怖と敬意とを強く感じる。展示からとても強い印象と刺激を受けた。しかしそれと同時に、そこには、そのような形式(あるいはその一般性)そのものへの疑いというものはあまり含まれていないようにも感じられた。つまり、絵画が(絵画として)イメージを構築するための基底的な形式や手続き(メソッドとスキル)の、再編成や自己言及的検討、別様なものへの変質の可能性など、は、あまり問われていないように感じられた。
(これはあくまでも、この展覧会の作品に限った感想で、例えば、キャンバスに油絵の具という形ではなく、紙切れに色鉛筆みたいな形で描かれたものも展示に混じっていれば、「一般的な形式」という感じがこれほど強く出ることはなかったのかもしれない、とか。)