●以下は、1月20日東京新聞の夕刊に掲載された、東京国立近代美術館「endless山田正亮の絵画」の美術評のテキストです。

五千点を越える絵画を残した山田正亮は「自分の作品の展開は体系化されていて円環状になっている」という発言をしています。画家の生涯の仕事をはじめて網羅的に展示したこの展覧会によって、その意味がようやく明らかになります。
静物画の物(実)と空間(虚)の部分の違いが解体されて交換可能になり、抽象化されたところから円環は始まります。不定形な形態と色彩がざわつきながら押し合いへし合いする画面から、次第に矩形が浮かび上がるようになり、画面は整理された矩形の連続となります。次にこの矩形が圧縮され、ぎゅっと詰まった細い横ストライプが押し合いへし合いする画面へ展開し……と、このように生涯にわたって整合的で連続的に展開し、最後に再び、形態と色彩がざわつきながら押し合いへし合いする絵へと戻っていきます。
この円環のなかには豊かな絵画の感覚が詰め込まれています。画家がキャリアのどの時期に「円環」を意識したのか分かりませんが、そこには、形式的な抽象絵画の可能性の全てをここに閉じこめてやるという野心を感じます。孫悟空がお釈迦様の手の内にあるように、後進の画家の仕事も皆この円環の内にあるのだ、と。
しかし、画家がこの円環の構想を初期から持っていたとは考えにくいでしょう。一枚一枚の絵を試行錯誤して仕上げる行為を長年続けた末に、ある時にふと振り返って、事後的に構造に気づいたはずです。気づいたら自分は絵画の円環構造に描かされていた、と。しかしその時、一枚一枚の個別の作品の意味はどうなるのでしょうか。
「Work C」というストライプのシリーズを考えます。縦長の画面に多数の横縞がみっしり塗り重ねられ、高い緊張と圧力を保ち、色彩の差異による律動を感じます。塗り分けられたというより塗り重ねられた横縞は緊密に相互作用し、画面全体で一つの全体性を形作ります。不思議なことにこの全体性(ひとまとまりの関係の緊密さ)は、画面全体ではなく部分だけに注目して観る時にも生まれます。どのように分割してもその部分が一つの全体(秩序や律動のまとまり)として現れるのです。
全作品のつくる円環構造、個別のシリーズ、個々の作品の間にも同じ関係があると考えます。全体も部分も、どこで切っても同等に全体なのです。