●東大の教養学部美術博物館でロラン・バルトのデッサン展をやっていたのだけど、観に行けなかった。バルトは『彼自身によるロラン・バルト』の「色彩」という項目で、世間は常に性欲が攻撃的であることを望んでいるが、絵画のなか、色彩のなかにのみ、しあわせな、甘い、官能的な、歓喜にみちた性欲という観念があるというようなことを述べたあと、私が画家だったなら、私は色を塗ることしかしないだろう、と書いている。しかし、例えば「ユリイカ」の特集に掲載されている図版で判断する限り、バルトのデッサンは色彩というよりも、むしろ線による運動性によって成り立っているようにみえる。線の運動性という言い方はあまり正確ではなく、その線を引く時の手の運動性は、クレヨンや筆を通して、紙の表面に触れる感触によって決定されているような感じで、つまりデッサンをするバルトにとって重要なのは、色彩に感応することよりも、手の感じる触覚や振動を味わうことであるように見えるのだ。線の表情や運動性は、他の線との関係で決定されているのではなく、一つ一つの筆触がなされる時のその都度の紙と筆先の感触によって出来上がっている。手の感触から感じられる官能性に対して、むしろ色彩は画面全体を調和のとれたものとするために、抑制されて、操作的に使用されているように思える。バルトによるデッサンは、観るためのものであるというよりも、あくまで描く(画面=紙の表面に触れる・引っかかる・引っ掻く)ためのものであるだろう。
●今、『彼自身によるロラン・バルト』を引っぱり出してきてパラパラみていたら、「絵具としての語」という項目があった。そこでバルトは、私は絵具を買うとき、その名前しか見ない、と書いている。絵具の名とは色彩の領域を区切るものであって、それは「ある色彩そのもの」を特定するほど精密なものではない。だからこそ名前は、ある快楽への約束、ある操作のプログラムでありうるのだ、とする。(この感じは、個人的にすごく良く分かる気がする。)ここで色彩の名前=語は、「これから私はその語とともに何かをすることになる」というような「ある未来を示す身ぶるい」いわば「食欲のような何か」を喚起するものとして捉えられている。これを読むと、バルトを魅了するのはあくまで、色彩の名前が喚起するある「未来への予感」であって、ある色彩に触れることよって感知される感触そのものではないことが分かる。おそらく、色彩そのものに触れる時、色彩による感覚はバルトの言うように「しあわせな、甘い、官能的な、歓喜にみちた」ものであるよりは、もっと強烈で(強烈な色彩という意味ではない)どうしようもないものとしてあらわれると思う。色彩とは極めておそろしいものなのだ。だから、色彩画家であるためには、絵具の名前がもたらしてくれる(名前が媒介することで可能になる)ある「操作のプログラム」を放棄し、どこまで(どの程度まで)色彩そのものが喚起する感触に身を任せ、その感覚そのものによって仕事をすることが出来るかにかかっているのだと思うけど、これはとても怖いことで、事は慎重に運ばれなければならない。(だから勿論、そこには別の「操作のプログラム」が必要であろう。)