03/12/26

入沢康夫の詩の良い読者では全くないのだけど、『詩の構造についての覚え書』を少しづつ読んでいる。この60年代を代表するような名高い本が面白いのは、言葉は常に「発話者との関係」「受け手との関係」においてあるしかなく、だから言葉を使って詩をつくることは「石や木を使って家を作る」こととは同じではないという認識に基づいている点にあるのではないだろうか。つまり、言葉は決してオブジェとはならず、だから詩には、常に「人間的関係」が貼り付いていて、「純粋詩」などあり得ない、と。このことは冒頭の「はじめに」において、詩は「作者も、批評者も、そして多分は読者のほとんども、詩人なのだ」という(極めて閉鎖的な)世界でつくられ、読まれるのだという認識と密接に繋がっていると思う。言葉は常にある「状況」のなかで、特定の文脈のなかで発せられ、受け取られるしかない。だからこそ、詩(作品)を特定の人間的関係(特定の状況、文脈)を超えうるものとして存在させるためには、(純粋詩などを夢みるのではなく)最低限その「構造」が意識的に捉えられていなければならない、という問題意識によってこそ、この本は書かれる。構造とはまずなによりも、人々が知らないうちにそれに従い、それを自然だと感じているもののことであり、それを自然であるかのように成り立たせているのが、ある特定の人間的関係であり、その状況であるのだから、それを分節化し、分析することで脱・自然化すること。構造を意識化することで、自然と化した人間的関係が決して自然のものではなく、あり得ぺきものの(たまたまそうなった)一つの形態であることが分かり、それを外側から眺める視点を確保することが出来る。勿論、ここで外側からの視点を何とか確保できたからといって、その人間的関係から自由になれるわけでもないし、それを具体的に変更・更新することが出来るわけでもない。(ある種の人はすぐに、メタ・レヴェルのメタ・レヴェル、そのまたメタ・レヴェル...以下永遠につづく、みたいなことを簡単に言いたがるけど、そういう考え方をする人は、今ある状況のどうしようもなさと、そこからの離脱の必然性(の切実さ)という「具体的な事柄」に即して考えていないのだと思う。)構造に自覚的になったからといって、良い作品がつくれるようになるわけでもない。(だからこれは決して「詩作入門」ではない。)それでも、なんとかしてそのような視点を確保しなければ、「詩(作品)をつくる」という行為を信じることが出来ないし、とてもじゃないがやってられない、という閉塞感が、このような仕事がなされる必然性としてあったのだろうということが推測されるし、この本が今日も読まれる意味があるとしたら、その点にこそあると思われる。この本がクールなのは、詩(作品)というものがそれ自体で(オブジェのように、もの自体のように)純粋なものとして文脈や状況を超えうる強度をもつことが出来るという考えを甘ったるい幻想として退けながらも、それでもなお、詩(作品)というものが文脈や状況を超えうるものとしてあり得るはずで、そのようなものとしてあるためには最低限どのような条件が必要であるのかが問われているところだろう。だからこの本は、具体的な詩作の方法について触れた本ではなく、出来上がった詩について分析的に記述するような本でありながらも、あくまで「作品をつくる」ために必要とされた仕事なのだと思う。