●茨城まで行った。つくばエクスプレスにはじめて乗った。杉浦大和さんのアトリエにお邪魔して新作をみせていただいた。
●文脈とネットワークとは違う。「文藝」の『カフカ式練習帳』の書評でも書いたのだが、それは、ドゥルーズが『シネマ』で書く「総体」と「全体」との違いとかかわる。総体とはある閉じられた領域であり、ある総体は、下位の総体という部分に分割できるし、それ自身が上位の総体の部分でもある。文脈とはつまり、下位の総体に対する(下位の総体それ自身からは不可視の)上位の総体による統合であろう。「文脈を読む」とは、ある特定の下位の総体が、どのような上位の総体に包摂され、その総体においてどのような位置に配置されているのかを読むということだ(「作品」や「作家」を「美術史」上のどの位置に配置するか、あるいは下位の領域である「作品」が上位の「美術史」内の配置をどう書き換えるか、あるいは、「美術史」のかわりにもっと上位の、グローバルな何か(「国際情勢」とか「経済」とか)を代入しても同じ)。
それに対し「全体」は、常に全体であり部分に分割されることはないしその外もないとされる。
そしてドゥルーズは「全体」を、あらゆる閉じられた領域(総体)をつなぎ、それを開いたままにさせておくような糸のようなものだとする。つまり全体とは宇宙のすべてを等しく結びつけている紐帯(ネットワーク)である、と。あらゆる総体が、すべて直接的に「全体」という糸で結びつけられているとすれば、すべての総体はフラットとなり、階層構造にはならない。たとえば、「野球」という総体と「球技」という総体が同列に並び、階層構造をつくらない。あらゆる総体は(どんなに上位のものでも下位のものでも)、全体とつながっている限り、全体に対して平等(フラット)である。
ドゥルーズは「全体」を映画と結びつけて「画面外」と言い、そしてそれを「精神」とも言いかえている。つまりそれはポジティブには示せない。
とはいえ、それは単純なアナーキズムとは違う。ドゥルーズは「総体」を否定はしない。ここでは、階層構造や包摂関係は常に決定される以前の(未然の)状態にある、ということだ。あるいは「総体」は、複数の(時には上下転倒した)包摂関係のなかに同時に、あるいは確率的な濃度分布のなかに置かれる、ということだ。全体が、総体を常に≪どこかに開いたままにしておく≫ということは、「文脈」を否定はしないが、それを決して確定させもしないということだ。文脈は、文脈生成、文脈解体という動きのなかのある一点のスナップショットとしてしか取り出せない。さらに、取り出された文脈は、そこにはない他の無数のあり得る可能な文脈たち(未然的文脈群)のなかの一つという地位しかもてない。文脈は、われわれがそれを必要とせざるを得ない限り「ない」とは言えないが、それを必要とする限りにおいて「ある」としか言えない。
だとすれば、どんな文脈もそれ自身として「正しい」ということはない。ある文脈に対する新しい文脈、よりマシな文脈、あるいは、支配的な文脈に抗するオルタナティブな文脈を提示することではなく、それらすべてを飲み込んでしまう、無数の文脈が重なり、分厚い雲のようにひろがる文脈(未文脈)群があり、そのなかで生きている(駒を、手を、打っている)と考えるべきではないか。