●新宿のM2ギャラリーで山方伸さんの写真を観て、フレームについて考えていた。
写真のフレームにはまず、構図や視覚的なバランスという意味がある。そして、ある対象をどの位置から(どの角度で、どのタイミングで)撮るのかという意味もある。そして、何と何を画面に入れて、どこからその外とするのかという選択と排除という意味もある。もっと広い意味では、どのような対象を選んでいるのかということもフレームだと言える。なぜ、写真なのか、なぜフィルムなのか、ということも含まれるだろう。
写真には、具体的にここと指させる場所の、この時と指定できる時間が写っている。それを、その対象に対する興味(思い出の場所だとか、好きな人が写っているとか、その建物に住むかもしれないとか)ではなく、作品として観るという時、そこに何を観ているのだろうかと考えると、それはフレームを観ているということになるのではないか。
例えばピカソのある絵を観ている時に「これはピカソの愛人を描いている」という解説を聞くと何かしらわかった気になるとしても、絵を観ながら、ピカソの愛人を見ているとはあまり思わない。それは、見ている物がキャンバスと絵の具であり、しかも描かれた像はふつうに自分が知っている「女性」とはかなり形が違っているからだろう。そこから、ピカソの意図のようなもの、愛人への感情のようなもの、あるいはその形式の美術史上の意義のようなものを読もうとするかもしれない。そのように、そこに観られる「愛人」とは別のことを見ようとすることを、とりあえずは「フレーム観る」と言えるかもしれない。
でも、ピカソの愛人の写真を見る時は、人は普通そこに、撮影者の意図や感情ではなく、ピカソの愛人の姿を見ようとするだろう。そこに写真による作品というものの不思議なねじれがある。
とはいえ、ピカソが描こうとしたものもまた、ピカソの意図でも感情でも美術史上の意義でもなく、ピカソの愛人そのものだったはずだ。絵の具やキャンバス、ある(新しい)形式や様式、画家の(オリジナルな)技量等は、それ自体を見せるためのものではなく、それらすべてを合わせて「愛人」その人を見せる(出現させる)ために組み合わされる。もっと言えば、対象が先にあってそれを表現するというより、絵の具、キャンバス、形式、技量等の組み合わせ(つまりフレームの創出)によってはじめて「対象(愛人)」が創出される。それが言い過ぎならば、「愛人」の潜在的だった様相がフレームによって露わになる、と言える。
この時に創出される「愛人そのもの」とは、ピカソという有名な芸術家がいて、彼には数々の愛人がいたという伝説(武勇伝)があり、そのような大芸術家の伝説から、その愛人はどんな女だったのかという興味が生じて、その女性の写真を見てみる、という関心のあり様から浮かびあがる現実‐対象としての「ピカソの愛人」とはまったく異なるものであろう。
そのような下世話な(あるいは紋切り型の)関心によって浮かび上がる下世話な(紋切り型の)現実‐対象とは異なる「別の関心」を作り出すのがピカソの絵画のフレームであり、その「別の関心」によって照らし出される「別の現実‐対象」としての「愛人」がその作品(表現)によって創出される。
●パースは、記号を、代表項、対象、解釈項の三つからなるものとした。代表項とは記号それ自身のこと(「愛人」という文字)で、対象とは代表項によって指示される概念(「愛人」という記号の内容)で、解釈項は記号のよって作られる意味(「愛人」の意味)だという。ここで、二番目の「内容」と三番目の「意味」とはどう違うのか。パースは、「代表項(ラベル)が解釈項を呼び起こすことで、対象(イデア)に至る」という言い方をする。ソシュールで言えば、代表項がシニフィアンで対象がシニフィエだとすると、解釈項とは何なのか。
『記号と再帰』(田中久美子)によれば、解釈項はソシュールで言えばいわば「差異の体系」に当たるものだという。つまり、ある記号(代表項)によって、その記号が含まれている特定の文脈が呼び出され(解釈項の作用)、その文脈の配置のなかのその記号の位置によって、記号の対象(内容)が指示される。ここで解釈項とは、差異の体系、あるいは文脈という「全体」そのもののことではなく、それを呼び出す作用、あるいはその存在を予感させる作用(あたかも文脈があるかのように感じさせる作用)だと言えるのではないか。そして、「代表項が解釈項を呼び出して…」という言い方は、記号の方が、それを含む文脈に先行していることを表わすのではないか。つまり、ある新しい「記号の実在=代表項」は、未だない文脈を予感させ、その新たな文脈の創出を先取りすることによって、新しい内容を生み出す。あるいは、文脈がなければ内容もまだないのかもしれないが、そこにいつの日かふさわしい内容が補填されることを(文脈が形成されることを)、その記号が予感し、要求することになる。内容の欠落した記号は、来たるべきものを発動させる。
解釈項という考えは、関係(文脈)のなかの要素であるものが、既に自分を包摂する関係を内に含み、あるいはそれを先取りしているという考えからくるものなのではないか。その時、関係(文脈)はその都度呼び出され、改めて予感されるものであって、どこかに既に完結したものがあるということではない、ということにもなる。
ここで、ピカソによる新しい形式やオリジナルな技量が「記号それ自身=代表項」で、それが表す「愛人」という内容(「愛人」の新たな内容)が「対象」であるとすれば、この時の「解釈項」というのが、まさにフレームに当たるということなのではないだろうか。
●フレームを観るということはだから、フレームそのものを観るというより、そのフレームによってしか現れない対象を観るということになる。フレームは、それ自身として完成した文脈をつくっているわけではないが、そのような文脈を準備する「関心の形」を創り出すとは言えるのではないか。ある対象を見出すための、ある関心の形をつくりだすのがフレームなのだ、と。