●お知らせ。七日発売の「文藝」秋号に『カフカ式練習帳』(保坂和志)の書評を、「新潮」八月号に『わたしがいなかった街で』(柴崎友香)の書評を書いています。まだ現物を確認できてはいませんが、問題か手違いがない限り載っているはずです。
●『宇宙飛行士の医者』のDVDを監督の名前にひっかかって借りてきて、観た。アレクセイ・ゲルマン・ジュニアって、あのアレクセイ・ゲルマンの息子としか考えられないじゃん、ということで。
なんというか、すごく勉強して、すごくがんばって作っているのはひしひしと伝わってくる。父親だけでなく、ロシアの偉大な映画作家たちの達成を踏まえ、それに連なろうという意志も感じられるし、並ではない力量も感じられる。でも、面白いかと言われれば、ぼくにはすばらしく面白いとは思えなかった。手法と題材が別の方向を向いてしまっているのではないか、と。
たとえばタルコフスキーの主人公は皆とても苦悩している。なにが原因でそんなに苦悩しているのかわからなくて、苦悩するために生まれてきたから苦悩しているとしか思えなくて本当に鬱陶しい。しかし、この映画の主人公の苦悩の理由ははっきりしている。一つはソ連の強引な宇宙開発に手を貸してしまっていることへの罪悪感であり、もう一つは偉大すぎる父の影である。タルコフスキーの主人公はきっと、人がうらやむようなどんなに幸福な状況に置かれていても、常に苦悩しているだろう。しかし、この主人公は上記の二つの問題さえなければ苦悩などしないだろう。つまり彼の苦悩はたまたまそうであった状況に左右される相対的なものでしかなく、タルコフスキーの主人公のように絶対的なものではない。タルコフスキー的苦悩はその人が存在するあり様と不可分だが、この映画の苦悩は心理的な問題(心理的に「説明可能」)でしかないように感じられる。この違いがそのまま、映画の説得力の違いとなってあらわれているように思った。
ソ連による強引な宇宙開発への批判的なまなざし、そのような状況下に生きざるを得なかった人々たちのドラマ、そして過去の歴史を振り返ること。このような事柄は、因果の連鎖としての物語-歴史として構築され、語られることであろう。そのことと、この映画の主な手法である、即物的でポリフォニックな文体とは、基本的にあい入れない。むしろそれらを解体し寸断する。ロシアの偉大な映画作家たちは、この、基本的にあい入れないことがらを強引に混合するような形で力強く異様な作品をつくってきたし、つくっていると思う。それは、歴史を含み、あるいは歴史から生み出されたものとして、歴史とともにありつつも、もはや(因果の連鎖としてたどれるというような意味での)歴史-物語を形作り物語り指し示すものという範疇には収まらない。それは、歴史のなかにある歴史の否定(相対性のなかにあらわれる絶対性)のような感触をもつ。しかしこの映画では、このあい入れないものをうまく「調整」しようとしているようなにおいを感じた。いや、調整が悪いということではなく、積極的に混合しようというより(というか、ロシアの巨匠たちにおいては否応なく入り交じってしまっていると言うべきだろうが)、消極的に辻褄を合わせようとしているように感じられてしまった。主人公の苦悩の相対的性格に、それは強く現れているように思う。文体としてはポリフォニックなのに、内容としては理にかない、(単線的な)理に従ってしまっている。それはつまり、どちらも中途半端に感じられてしまうということだ。
いや、とにかくそれなりに立派な作品ではあるし、わざわざ悪く言うこともないとも思うのだが、なんというか、作品をつくるときに、信じたものに向かって突っ走るのではなく、突っ込まれないように各方面に配慮する的な消極的な無意味でのバランス(辻褄)を気にしてしまうことはありがちで、それは「弱い心」のあらわれで、自分も「作品をつくる人」の端くれとして、そこには敏感でなければならないし、そこを見逃したらダメなのだと思うのだ。
相対的な状況に苦悩する主人公を描くことが薄っぺらいと言っているのではない。相対的な状況を描くのなら、それにふさわしいやり方があるはずで、そうではないような語り方がされているように思える映画の中心に、そういう主人公がいることが、説得力を殺いでいるように思えるということ。タルコフスキーの映画は正確に、どんな状況においても苦悩するしかない、苦悩する生を運命づけられた主人公によって立ち上がる世界として成立している。この映画では、たんにその部署やめれば済むことだろ、と感じてしまう。もちろん、そんなに簡単にやめられたりしないのが旧ソ連時代の事情というものなのだろろうし、それについても表現したかったということだろうけど、そのような社会的、相対的な事柄を描くのには、ちがったやり方があるのではないかと思ってしまった。
●この映画で一番面白かったところは、だから主人公が出てこない場面だ。主人公の奥さんが主人公を訪ねて行こうとして妙なところに迷い込み、軍による収容所の焼き払いに出くわしてしまう場面。ここには、罪悪感や父への劣等感といったわかりやすい理由をもった苦悩などなく、ソ連時代のある一時期の描出という限定も越えてしまうような、もっと否応なしで強烈な何かがあるように感じられた。ああ、ロシアの映画を観ている、という感覚が、この場面には確かにあったように思う。