08/02/12

●今日、なんか唐突に、今までとはまったく違う感じの絵を油絵の具で描きはじめてしまった。これはいったいどうなんだろう、と、期待と不安でドキドキする。こんな感じはずいぶんと久しぶりだ。拙速に判断せず、結果を急がず、様子をみながら手探りでちょっとずつ進めていこうと思う。だいたい、油絵の具で描く時、どの溶き油、どのメディウムを使って、どの程度の厚さで絵の具を置くと、どのくらいの時間で、どの程度、乾燥するのか、というカンを、すっかり失ってしまっている。絵を描くということはつまり、絵の具の乾燥する速度にリズムを合わせることでもあるので、これが分からないというのは、本当に先が見えない感じで進めてゆくことになり、とても不安で足下がおぼつかないのだが、それがまたドキドキする感じでもある。これが人に観せられるようなものにまで発展してくれるかどうかは、まだ全然分からないのだが。
●昨日観た『ブラック・スネーク・モーン』のDVDに、テレビシリーズの『デッドゾーン』の一回分(「ダブルヴィジョン」)が、オマケというか、プロモーション目的というかで収録されていて、それがとても面白かった。いや、作品としては、チープなテレビドラマに過ぎないのだけど、思い切りぼくのツボだったのだ。
デッドゾーン』は、物や人に触れることで、人に見えないヴィジョン(触れた人、物の過去や未来のある瞬間)を見ることが出来る主人公が、その能力で様々な事件を解決するという話になっているらしい。映画で、同じ状況にいて、ある人には何かが見えて、他の人にはそれが見えない、という場面の「表現」を、ぼくはなぜかとても面白いと感じる。ぼくにとってホラー映画の面白さは、主にそこにあるし、例えば『ベルリン・天使の詩』なんかも、そこが面白い。「ダブルヴィジョン」ではタイトル通り、ヴィジョンを見ることが出来る人がもう一人出て来る。そこでヴィジョンの表現がより複雑になるところが、なんとも面白いのだ。
普通に人が「見る」ことの出来るものもとりあえず「ヴィジョン」ということにすると、ここには四種類のヴィジョンがあらわれる。ヴィジョン1、普通に人が「見る」ことができる状況。ヴィジョン2、主人公にのみ「見える」ヴィジョン。ヴィジョン3、もう一人の女性サイキックにのみ「見える」ヴィジョン。ヴィジョン4、二人のサイキックに共通して「見える」ヴィジョン。つまり、一つの客観的状況を示すための、四種類の質の異なるショットがある、ということになる。ぼくはもう、これだけでうれしくなってしまう。これは例えばタルコフスキーの『鏡』ような「芸術」ではないので、分かりやすく、一つのヴィジョンは一人の人物によって統制されていて、ヴィジョンの複雑な混合は、人物同士の関係に沿って表現されはするのだが、ヴィジョンは、主観的な「夢」ではないので、あくまでひとつの客観的な現実(場面)の、四つの異なる側面ということになる。どの人物も、すべてのヴィジョンは見ることは出来ない。(主人公はヴィジョン3を見られないし、もう一人のサイキックの女性はヴィジョン2を見られない。保安官はヴィジョン1しか見られない。それらの人物が、同じ場所に立ち会って事件に対する。)物語は、独自のヴィジョンを見ることの出来る二人の、二種類の異なるヴィジョンの偶然の交錯によって動きはじめる。この、複数の質の異なるヴィジョンの複雑な混合のあり様(表現)が、ぼくにはたまらなく面白く感じられる。(物語そのものはすごくチープだけど。)
結局、ぼくが自分の作品(絵画)でやろうとしていることも、これにとても近いように思うのだ。勿論それは、横顔にも見えるしツボにも見えるとか、水が下っていると思ったらいつの間にか昇っていたみたいな、単純な視覚的トリックとしてではなく、もっと身体や感覚の全てを使ったものとしてなのだが。