●生まれ育った土地をあるいていると唐突に時間が戻ってしまう。今は、ここに住んでいるから、たまに実家に帰っているという時とは違って普段モードというか生活モード、散文的モードだから、懐古的な気分などまったくなく油断していて、そこにいきなりガクンと過去が混ざり込んでくると違和感が大きい。コンビニに用事があって、それがまた最寄りのコンビニが以前住んでいたところよりにも増して遠くて、しかも今日は蒸し暑くて、用事も面倒だしもうまったく雑な気持ちで、周囲への繊細な眼差しなど向けることなくぞんざいに目的のコンビニのことだけ考えてちんたら歩いていたら、昔は大手のタイヤメーカーの平屋の社宅が広がっていた地帯で、今はまったく様変わりして分譲住宅が建ち並ぶ一帯の隅の方に、道路と社宅の敷地を仕切るものだった背の高い水色の金網がそこだけ昔のまま残っていて、いや、そこに金網があるのは別に以前から認識していたことで、改めて発見したのではないのだけど、でも、様変わりした後も既に見慣れてなじんでいる風景の、すっかり様変わりした周囲でそこだけ、その金網だけがそのまま、そこが小学校の行き帰り道だったころのそのままで残っているのだと気づいた時、何気なく今ふれようとした金網がそれなのだと思った時、今の自分がそのまま小学生の自分と重なって金網にふれているというか、二つの時間が金網にふれる感覚を交点にして重なったというか、小学生の自分もその時の時間もまだそこにそのまま残っていて、それが今の時間のなかに流れ込んできたような強い感じがきて、医者の診察で喉の奥まで金属のへらのようなものを突っ込まれてえずいたようになって、鼻の奥に金属の味とにおいが抜け、うっ、となった。
●昔のことを、エピソード的にも感覚的にもよく記憶している方ではなくて、むしろ記憶は穴だらけなのだけど、時々ピンポイントですごく濃く過去と「つながって」しまうことがある。
●あと、これは過去が流入してくるという感じとはまたちょっと違うのだけど、小学校や中学校の通学路だった道を、今の小学生や中学生が歩いているのを見た時の不思議な感じも、こちらへ引っ越してくる前には感じたことがなかった感覚だ。自分が中学生として歩いたのと同じ場所を、今、自分とは別の存在である誰かが、同じように中学生として歩いている。この感覚は、自分と今の中学生とを重ね合わせる感じとは違う。むしろ、別の者の「別であること」が、別であるままでぐーっと近づいてくる感覚と言えるだろうか。その「誰か」の姿は、自分が過去に中学生として感じていた様々な感覚を生々しく、いま、ここに呼び起こしはする。しかしその生々しい感覚の「内容」はぼくのもので、きっと別の誰かのものとは違う。だけど、「内容」は違ってもその「生々しさ」の強度はきっとぼくとその誰かとでかわりはないのではないか。ぼくは彼ではないし彼はぼくではない。彼がいま、この場所を歩きながら生々しく感じていることは、ぼくがかつてここを歩いて感じていたこととは違うし、そもそもそれらは比較することすらできないくらい隔たっている。だが、内容ではなく生々しさそのもの、あるいは、何かを感じているという事実そのものは、ぼくでも彼でもない場所で、この世界そのものに起因する何かとして、まるでぼうふらが湧いて出るようにそこからわき出ているのじゃないかという感覚。ぼくと彼とは決して重ならないし、あまりにも隔たっている。ぼくには彼の抱えている問題や欲望(の内容)を理解できないし彼もぼくを理解できない(そもそも意識すらしない)。しかしだからこそ、彼こそがぼくであり、ぼくこそが彼であるとも゜言えるのじゃないか、という感覚。
●これは、飲んだ帰りの混んでいて空気の悪い終電の車内で、遅々としか進まない電車と人いきれに軽く苛つきつつ、まだまだ長い先を思ってうんざりしている時などにふと、強烈に沸き上がってくる感覚、「今、ここにいる人すべてが、自分と同じように、それぞれ固有の欲望や問題を抱え、それぞれの疲労のなかに、それぞれに固有の苛立ちやうんざりのなかにいるのだと気づき、もちろんそれは、いま、ここにいる人だけでなく、かつて存在し、今後存在するすべての人がそうなのだと思い、その、ぼく自身の感覚のキャパシティをはるかに越えるあまりに途方もない事実に、胸の内から膨張してくるもので体が裏返り、裏表逆になってもさらにその内から膨張してくるものがあって裏返り、さらにまた裏返りして、嘔吐をすればするほどに吐き気が増してくるような底なしの感覚に、似ているようでいて、真逆のようでもある。